地球の歩き方~迷い方2インドの人々編~
2008年11月14日
インドって・・・私が今回インドに行くまでに、インドに対して思っていたイメージは、
・空港を降りると子供達がお金を頂戴とまとわりついてくるので、対策としては、小銭を用意しておき、それをばらまいて、子供達が拾っている間に逃げなければならない。
・ガンジス川を見ると、今までの人生観が変わり、日本に帰ってきたくなくなるという事を何人かに聞いた事がある。
・ブリックスの一つであるインドは近い将来日本のGDP第2位の座を抜き去る存在である。
・ヒンズー教の信者が多く、仏陀も生んだ土地柄なので、信仰心や道徳心に卓越した人々が住んでいる。
・景色がものすごくきれいで雄大な大自然が、労なく見ることが出来る。
・カースト制度のため身分差別が今だにある。
などなどであった。
今回のインド渡航は、デリーとアーグラーの二都市しか回っていないので、これがインドのすべてではないという事は間違いない、それに、文中に出てくる~らしいという言い回しは、現地インド人ガイドの何人かから聞いた話である。
私が出会ったインドの人々
タクシー・オートリクシャー・サイクルリクシャーの運転手さん達
デリーの空港に到着したのが、夜の6時であった。そこから旅行会社のバスに乗り、宿泊先のインターコンチネンタルホテルへ向かった。世界会議では、夜に各国JCが主催するパーティーが開かれるため、それには参加しようとホテルから一目散で会場へ向かった。もうパーティーは終わりがけであった為、食べ物もあまり残っておらず、お腹がすいた私達は、タクシーに乗ってレストランへ向かう事にした。その時乗ったタクシーの運転手が、このサイクルリクシャーと呼ばれるインドの人力車で私の横に乗っている彼である。インド人と、インドでの初めての接触であった。彼はちゃんと希望通り、インド料理を食べる事が出来る綺麗なレストランに連れて行ってくれた。そして私達の食事が済むのを待ってくれていて、ちゃんとホテルへも送ってくれた。料金は500ルピー(日本円で1000円)2時間ほど拘束して日本円で1000円なら安いと思ったが、実際ここから彼の計画は始まっていた。彼は私でもわかる英語で明日の予定を聞いてきて、観光をしたいと伝えると、自分が案内すると提案してきた。料金は8時間で1600ルピー、本家地球の歩き方にはプライベートカーにガイドをつけて1000ルピー~1500ルピーが相場と書いてあったが、彼が親切そうであったのと、最近の円高で、1ルピーが2円になっていることもあり、さほど高いと思わなかったため、お願いする事になった。
朝ホテルの入り口で待ち合わせた彼は前日と同じように気さくでとても親切なインド人であったが、観光地を何箇所か回るうちにだんだん怪しくなってきた。執拗に買い物を薦めてきた。最初は断っていたのだが、だんだん相手も巧妙な手口になっていき、今の観光地を見るために、友達のお店の駐車場を借りたから見るだけ見てくれとか、朝ごはんをまだ食べてないので食事休憩が欲しい、その間お店を見ていてくれとか、しまいには勝手にお店に乗りつけたりした。こんな事にならないように、インドへは何度も来たことがあるとか言って保険をうっていたつもりではあったし、英語はペラペラだが海外経験の乏しい今泉君も、前回のトルコでの失敗を教訓にして、余計な事は話さなかったにもかかわらずだ。言うまでもないが、彼の目的は、ツアーで旅行に参加すると必ず連れて行かれる土産物屋と同じで、店からのバックを期待してのものだ。前回のブログに書いた通り、こんなやりとりを繰り返しながら7箇所ものデリーの観光地を回るのは、骨がおれた。悪い運転手にひっかかったものだと思って、目的地をすべて回り、時間はまだ一時間ほど残っていたが、契約どおりのお金を支払ってタクシーを降りた。しかしながら、インド滞在中に乗ったタクシーやオートリクシャー(3輪車)で、英語が話せる運転手のほとんどはこの輩であり、逆にこのような扱いをうけるのが普通であった。ちなみにタクシーの相場は150ルピーで、夜は200ルピー、オートリクシャーは一人20ルピーである。気が引けるが、サイクルリクシャーは一人10ルピー(20円)だそうだ。ぼったくられても何百円の世界だからまあいいかと思いもしたが、後からくる日本人観光客のためを思い、相場で貫き通した。移動するにはどうしても彼らとつきあわなければならず、毎日移動のたびに疲れた。ホテルの人に安全なメーターつきのタクシーをとオーダーしても無駄である。ホテルを出ると、さっとメーターを切ってしまし、いくら?と聞かれるしまつである。目的地に行かず、お土産屋さんに直行される。こんな事はざらである覚悟をしながら彼らと付き合わなければならない。必要なのは大体の地図と行きたい場所の位置関係を覚えておく事だ、一番笑ったのは、ぜんぜん違うところへ行こうとしているオートリクシャーの運転手の肩を後ろからつかんで、ハンドルを切らせたことだ。後もう一つ信じられないのが、どこどこに行ってくださいとお願いして、いいよっと走り出した後に地図を見せてとか名前をもう一度確認される事だ。とりあえず乗せて走っておけという感じだ、しかし案外これらの人の方が、良い人なのかもしれない。
物乞いと大道芸人?
観光地や道路で信号待ちをしていると必ずこれらの輩がまとわりついてくる。さすがに物乞いにカメラを向けるのは気がひけるので写真をとらなかったのだが、記念写真をとっているときに偶然物乞いの子供が写りこんだ。マネーマネーと言ったり、バクシーシーと言ったり、英語が流暢な子供は悲しげな顔で家庭の困窮を訴えたりする。当初はストリートチルドレンかと思い、かわいそうになり、子供にはお金をあげようかとも思ったが、この周りにはたくさんの物乞いがいるのでパニックを恐れてあげることはしなかった。ガイドさんによると、彼らには絶対にお金をあげてはいけないらしい、インドの人たちは体に障害を持つ人たちには寛大で、そういった人たちには施しをすすんでするそうだ。それらの人は、就職も出来ず、自力で生活費を稼ぐ事が困難であるかららしい。しかし子供達は五体満足で仕事をしようと思えば出来るし、しかも家には子供達の稼ぎをあてにして仕事もしないでいる親がちゃんと存在するらしい。彼らはインド人には相手にしてもらえないので、観光客を狙っているらしい、しかもそれが結構な稼ぎになるらしく、その生活から抜け出すのを妨げる悪循環に陥っているらしい。
物乞いのほかには大道芸人風の人達や、物売りがまとわりついてくる、キングコブラを操る人や、猿回し、太鼓をたたく子供や、ひたすらバック転を繰り返す子供など、本当に疲れる。観光地の中でもいきなり話しかけてきて、建物の説明やベストポジションの撮影ポイントを教えてくれる人がいるが、別れ際に必ずバクシーシーとお金を要求される、チップのようなものなのだろうが、これも本当に疲れる。うっとおしいので何度が払ってしまった。
大事件発生!!
スリとインドの警察
私と江口君のデジカメが盗まれました。私が盗られたのは、まだこの時点ではほこらしげに腰からさがっている真新しいデジカメです。江口君は肩から提げていた一眼レフの高級品です。帰国前日、もうインド人とのやりとりに疲れながらも慣れていた私達は、町に買い物に出かけました。写真は夜ですが、昼間に行きました。写真のようなごった返したところに行ったのですが、オートリクシャーを降りるとまず、若いインド人の男の子が、今英語の勉強をしている、よかったら話し相手になってくれと近寄ってきました。自分じゃ相手にならないからごめんと断ったのですが、買い物に行くなら案内するとついてきました。うっとうしいなと思いながらも歩いていくと、今度は何やら江口君に話かけてくるおじさん登場、手には靴磨きのセットとハンカチを持っていました。その二人を引き連れて無視しながら歩いていくと、今度は正面から別の人が現れて、靴を拭いてもらいなよ、汚れてるよと話しかけてきました。そして江口君の靴を見てみると、びっくりするほどの量の糞が靴にかかって、いやのっていました。私達は思わず立ち止まったのですが、靴磨きのおじさんが、かってに江口君の靴を拭き始め、糞をとりました。私達はホテルに帰って綺麗にしようという事で、その場を一目散で逃げ出したのですが、気づいたら腰にかかっているはずのデジカメがありませんでした。江口君も肩から提げていたはずのデジカメがありませんでした。ホテルから出て、ほんの20分もたたないうちの出来事で、私も体を触られた感触がなかったのでホテルに忘れたのかもしれないと思い、二人でホテルへ戻りましたが、ありませんでした。靴をよく調べてみると、裏には糞をふんだ形跡がなく、ズボンの内股にも糞が引っ付いていたので明らかに上からかけられたものでした。そこでようやく、あの時なんだと確信しました。海外には何十回と行ってますが、こんな目にあうのは初めての経験で、江口君の糞のついた靴を見ながら笑ってしまいました。
翌日警察に、旅行会社に手配してもらったガイドさんと行ったのですが、これがまたひどかった。警察へ向かう道中で、ガイドさんから、こちらの警察は恥ずかしい話だが、お金を渡さないと仕事をしてくれないのだと言われました。私はそれが信じられず、たくさんのインド人がそうであったように、このガイドさんもお金くれということかと思いながら警察へ向かいました。盗難事件があった管轄の警察に行ったのですが、本当に仕事をやる気がない様子で、まずホテルで作成していった英文の供述書を書き換えろと言われました。盗られたとかいてあるところを失くしたに変えろと指示をされました。その理由というのが、もし盗られたと書くのであれば、現場検証に行ったりとか面倒くさいし時間がかかる、だから失くしたとだけ書きなさいというものだった。しかもご丁寧にこれでも保険はおりるからと言ってきた。これが警察なのかと驚いたが、その後被害届けのレポートを打つもう一人の警察官が人差し指一本でたどたどしくタイプしているのを見て、私が打とうかと冗談で言ったら本当に私が打つはめになった。まあおかげで早く文章が出来上がったのでよかったが、それに署名とスタンプをおしてもらった。お金を支払う事なく終わったので、やはりガイドがくすめるつもりであったかと思っていたら、ガイドに裏の小部屋に来るように促された。部屋に入ると3000ルピーを警察官に払わなければならないと言われた。なんだか怪しいと思ったので直接私が払うと言うと本当に警察官が小部屋にやってきた。ふくよかな愛想の良い女性警察官が担当してくれたが、まさしく彼女であった。信じられない気持ちでいっぱいであったが私はお金をあまり持ってきておらず500ルピーしかないと言うと、それでいいと彼女に直接言われ、お金を差し出すと私の手からすっとお金を受け取り去って行った。制服を着た警察官にお金を払う感覚は言葉で言い表せない複雑な心境であった。表で待っていた江口君と帰ろうとしたらガイドさんは彼の分も払わなければならないと言った、まだ払うのかと思ったが本当に先ほどの警察官が、表までまた取りに来た。結局私達は合計1000ルピーを警察官に払った。後からガイドさんに聞いたら、警察についたときに、お金を払うから仕事をして欲しいとお願いをしてくれたそうだ、もし最初のこの話がなければ何時間でも待たされる羽目になるか、相手にされないまま終わるらしい。
しかし貴重な体験をした、今でもお金をすっと抜き取られるときの感覚が残っている。スリよりこちらの方が驚いた。ガイドさんは、自国の恥部を相当嘆いていた。観光客にひどい事をするインド人がたくさんいるし、警察もこんな対応だと観光客が減り、私達の仕事もなくなってしまうと嘆いていたが、このとき初めて私達の普通の感覚を持ち合わせたインド人に会った気がした。
インドのガイドさん今回二人のインド人のガイドさんと、話す機会があった。一人目はタージマハールに観光に行った時についていた人、この方も大変良いかたで、中谷美紀がインド旅行の本を書いているが、その時の一地域を案内し、またホームページにも写真が載っていると言っていた。二人目が警察へ連れて行ってくれたガイドさんで、言わずもがな大変良い人であった。インドを旅するには、フルガイドで旅するのが無難かもしれない、特に女性だけで行くなんてのはもってのほかである。完全ツアーがお勧めかもしれない。彼らは一日雇ってもギャラは50ドルでいいそうだ。
それでは今日はこのへんで。ナマステー
・空港を降りると子供達がお金を頂戴とまとわりついてくるので、対策としては、小銭を用意しておき、それをばらまいて、子供達が拾っている間に逃げなければならない。
・ガンジス川を見ると、今までの人生観が変わり、日本に帰ってきたくなくなるという事を何人かに聞いた事がある。
・ブリックスの一つであるインドは近い将来日本のGDP第2位の座を抜き去る存在である。
・ヒンズー教の信者が多く、仏陀も生んだ土地柄なので、信仰心や道徳心に卓越した人々が住んでいる。
・景色がものすごくきれいで雄大な大自然が、労なく見ることが出来る。
・カースト制度のため身分差別が今だにある。
などなどであった。
今回のインド渡航は、デリーとアーグラーの二都市しか回っていないので、これがインドのすべてではないという事は間違いない、それに、文中に出てくる~らしいという言い回しは、現地インド人ガイドの何人かから聞いた話である。
私が出会ったインドの人々
タクシー・オートリクシャー・サイクルリクシャーの運転手さん達
デリーの空港に到着したのが、夜の6時であった。そこから旅行会社のバスに乗り、宿泊先のインターコンチネンタルホテルへ向かった。世界会議では、夜に各国JCが主催するパーティーが開かれるため、それには参加しようとホテルから一目散で会場へ向かった。もうパーティーは終わりがけであった為、食べ物もあまり残っておらず、お腹がすいた私達は、タクシーに乗ってレストランへ向かう事にした。その時乗ったタクシーの運転手が、このサイクルリクシャーと呼ばれるインドの人力車で私の横に乗っている彼である。インド人と、インドでの初めての接触であった。彼はちゃんと希望通り、インド料理を食べる事が出来る綺麗なレストランに連れて行ってくれた。そして私達の食事が済むのを待ってくれていて、ちゃんとホテルへも送ってくれた。料金は500ルピー(日本円で1000円)2時間ほど拘束して日本円で1000円なら安いと思ったが、実際ここから彼の計画は始まっていた。彼は私でもわかる英語で明日の予定を聞いてきて、観光をしたいと伝えると、自分が案内すると提案してきた。料金は8時間で1600ルピー、本家地球の歩き方にはプライベートカーにガイドをつけて1000ルピー~1500ルピーが相場と書いてあったが、彼が親切そうであったのと、最近の円高で、1ルピーが2円になっていることもあり、さほど高いと思わなかったため、お願いする事になった。
朝ホテルの入り口で待ち合わせた彼は前日と同じように気さくでとても親切なインド人であったが、観光地を何箇所か回るうちにだんだん怪しくなってきた。執拗に買い物を薦めてきた。最初は断っていたのだが、だんだん相手も巧妙な手口になっていき、今の観光地を見るために、友達のお店の駐車場を借りたから見るだけ見てくれとか、朝ごはんをまだ食べてないので食事休憩が欲しい、その間お店を見ていてくれとか、しまいには勝手にお店に乗りつけたりした。こんな事にならないように、インドへは何度も来たことがあるとか言って保険をうっていたつもりではあったし、英語はペラペラだが海外経験の乏しい今泉君も、前回のトルコでの失敗を教訓にして、余計な事は話さなかったにもかかわらずだ。言うまでもないが、彼の目的は、ツアーで旅行に参加すると必ず連れて行かれる土産物屋と同じで、店からのバックを期待してのものだ。前回のブログに書いた通り、こんなやりとりを繰り返しながら7箇所ものデリーの観光地を回るのは、骨がおれた。悪い運転手にひっかかったものだと思って、目的地をすべて回り、時間はまだ一時間ほど残っていたが、契約どおりのお金を支払ってタクシーを降りた。しかしながら、インド滞在中に乗ったタクシーやオートリクシャー(3輪車)で、英語が話せる運転手のほとんどはこの輩であり、逆にこのような扱いをうけるのが普通であった。ちなみにタクシーの相場は150ルピーで、夜は200ルピー、オートリクシャーは一人20ルピーである。気が引けるが、サイクルリクシャーは一人10ルピー(20円)だそうだ。ぼったくられても何百円の世界だからまあいいかと思いもしたが、後からくる日本人観光客のためを思い、相場で貫き通した。移動するにはどうしても彼らとつきあわなければならず、毎日移動のたびに疲れた。ホテルの人に安全なメーターつきのタクシーをとオーダーしても無駄である。ホテルを出ると、さっとメーターを切ってしまし、いくら?と聞かれるしまつである。目的地に行かず、お土産屋さんに直行される。こんな事はざらである覚悟をしながら彼らと付き合わなければならない。必要なのは大体の地図と行きたい場所の位置関係を覚えておく事だ、一番笑ったのは、ぜんぜん違うところへ行こうとしているオートリクシャーの運転手の肩を後ろからつかんで、ハンドルを切らせたことだ。後もう一つ信じられないのが、どこどこに行ってくださいとお願いして、いいよっと走り出した後に地図を見せてとか名前をもう一度確認される事だ。とりあえず乗せて走っておけという感じだ、しかし案外これらの人の方が、良い人なのかもしれない。
物乞いと大道芸人?
観光地や道路で信号待ちをしていると必ずこれらの輩がまとわりついてくる。さすがに物乞いにカメラを向けるのは気がひけるので写真をとらなかったのだが、記念写真をとっているときに偶然物乞いの子供が写りこんだ。マネーマネーと言ったり、バクシーシーと言ったり、英語が流暢な子供は悲しげな顔で家庭の困窮を訴えたりする。当初はストリートチルドレンかと思い、かわいそうになり、子供にはお金をあげようかとも思ったが、この周りにはたくさんの物乞いがいるのでパニックを恐れてあげることはしなかった。ガイドさんによると、彼らには絶対にお金をあげてはいけないらしい、インドの人たちは体に障害を持つ人たちには寛大で、そういった人たちには施しをすすんでするそうだ。それらの人は、就職も出来ず、自力で生活費を稼ぐ事が困難であるかららしい。しかし子供達は五体満足で仕事をしようと思えば出来るし、しかも家には子供達の稼ぎをあてにして仕事もしないでいる親がちゃんと存在するらしい。彼らはインド人には相手にしてもらえないので、観光客を狙っているらしい、しかもそれが結構な稼ぎになるらしく、その生活から抜け出すのを妨げる悪循環に陥っているらしい。
物乞いのほかには大道芸人風の人達や、物売りがまとわりついてくる、キングコブラを操る人や、猿回し、太鼓をたたく子供や、ひたすらバック転を繰り返す子供など、本当に疲れる。観光地の中でもいきなり話しかけてきて、建物の説明やベストポジションの撮影ポイントを教えてくれる人がいるが、別れ際に必ずバクシーシーとお金を要求される、チップのようなものなのだろうが、これも本当に疲れる。うっとおしいので何度が払ってしまった。
大事件発生!!
スリとインドの警察
私と江口君のデジカメが盗まれました。私が盗られたのは、まだこの時点ではほこらしげに腰からさがっている真新しいデジカメです。江口君は肩から提げていた一眼レフの高級品です。帰国前日、もうインド人とのやりとりに疲れながらも慣れていた私達は、町に買い物に出かけました。写真は夜ですが、昼間に行きました。写真のようなごった返したところに行ったのですが、オートリクシャーを降りるとまず、若いインド人の男の子が、今英語の勉強をしている、よかったら話し相手になってくれと近寄ってきました。自分じゃ相手にならないからごめんと断ったのですが、買い物に行くなら案内するとついてきました。うっとうしいなと思いながらも歩いていくと、今度は何やら江口君に話かけてくるおじさん登場、手には靴磨きのセットとハンカチを持っていました。その二人を引き連れて無視しながら歩いていくと、今度は正面から別の人が現れて、靴を拭いてもらいなよ、汚れてるよと話しかけてきました。そして江口君の靴を見てみると、びっくりするほどの量の糞が靴にかかって、いやのっていました。私達は思わず立ち止まったのですが、靴磨きのおじさんが、かってに江口君の靴を拭き始め、糞をとりました。私達はホテルに帰って綺麗にしようという事で、その場を一目散で逃げ出したのですが、気づいたら腰にかかっているはずのデジカメがありませんでした。江口君も肩から提げていたはずのデジカメがありませんでした。ホテルから出て、ほんの20分もたたないうちの出来事で、私も体を触られた感触がなかったのでホテルに忘れたのかもしれないと思い、二人でホテルへ戻りましたが、ありませんでした。靴をよく調べてみると、裏には糞をふんだ形跡がなく、ズボンの内股にも糞が引っ付いていたので明らかに上からかけられたものでした。そこでようやく、あの時なんだと確信しました。海外には何十回と行ってますが、こんな目にあうのは初めての経験で、江口君の糞のついた靴を見ながら笑ってしまいました。
翌日警察に、旅行会社に手配してもらったガイドさんと行ったのですが、これがまたひどかった。警察へ向かう道中で、ガイドさんから、こちらの警察は恥ずかしい話だが、お金を渡さないと仕事をしてくれないのだと言われました。私はそれが信じられず、たくさんのインド人がそうであったように、このガイドさんもお金くれということかと思いながら警察へ向かいました。盗難事件があった管轄の警察に行ったのですが、本当に仕事をやる気がない様子で、まずホテルで作成していった英文の供述書を書き換えろと言われました。盗られたとかいてあるところを失くしたに変えろと指示をされました。その理由というのが、もし盗られたと書くのであれば、現場検証に行ったりとか面倒くさいし時間がかかる、だから失くしたとだけ書きなさいというものだった。しかもご丁寧にこれでも保険はおりるからと言ってきた。これが警察なのかと驚いたが、その後被害届けのレポートを打つもう一人の警察官が人差し指一本でたどたどしくタイプしているのを見て、私が打とうかと冗談で言ったら本当に私が打つはめになった。まあおかげで早く文章が出来上がったのでよかったが、それに署名とスタンプをおしてもらった。お金を支払う事なく終わったので、やはりガイドがくすめるつもりであったかと思っていたら、ガイドに裏の小部屋に来るように促された。部屋に入ると3000ルピーを警察官に払わなければならないと言われた。なんだか怪しいと思ったので直接私が払うと言うと本当に警察官が小部屋にやってきた。ふくよかな愛想の良い女性警察官が担当してくれたが、まさしく彼女であった。信じられない気持ちでいっぱいであったが私はお金をあまり持ってきておらず500ルピーしかないと言うと、それでいいと彼女に直接言われ、お金を差し出すと私の手からすっとお金を受け取り去って行った。制服を着た警察官にお金を払う感覚は言葉で言い表せない複雑な心境であった。表で待っていた江口君と帰ろうとしたらガイドさんは彼の分も払わなければならないと言った、まだ払うのかと思ったが本当に先ほどの警察官が、表までまた取りに来た。結局私達は合計1000ルピーを警察官に払った。後からガイドさんに聞いたら、警察についたときに、お金を払うから仕事をして欲しいとお願いをしてくれたそうだ、もし最初のこの話がなければ何時間でも待たされる羽目になるか、相手にされないまま終わるらしい。
しかし貴重な体験をした、今でもお金をすっと抜き取られるときの感覚が残っている。スリよりこちらの方が驚いた。ガイドさんは、自国の恥部を相当嘆いていた。観光客にひどい事をするインド人がたくさんいるし、警察もこんな対応だと観光客が減り、私達の仕事もなくなってしまうと嘆いていたが、このとき初めて私達の普通の感覚を持ち合わせたインド人に会った気がした。
インドのガイドさん今回二人のインド人のガイドさんと、話す機会があった。一人目はタージマハールに観光に行った時についていた人、この方も大変良いかたで、中谷美紀がインド旅行の本を書いているが、その時の一地域を案内し、またホームページにも写真が載っていると言っていた。二人目が警察へ連れて行ってくれたガイドさんで、言わずもがな大変良い人であった。インドを旅するには、フルガイドで旅するのが無難かもしれない、特に女性だけで行くなんてのはもってのほかである。完全ツアーがお勧めかもしれない。彼らは一日雇ってもギャラは50ドルでいいそうだ。
それでは今日はこのへんで。ナマステー
地球の歩き方~迷い方?インド観光編~
2008年11月12日
インドって・・・私が今回インドに行くまでに、インドに対して思っていたイメージは、
・空港を降りると子供達がお金を頂戴とまとわりついてくるので、対策としては、小銭を用意しておき、それをばらまいて、子供達が拾っている間に逃げなければならない。
・ガンジス川を見ると、今までの人生観が変わり、日本に帰ってきたくなくなるという事を何人かに聞いた事がある。
・ブリックスの一つであるインドは近い将来日本のGDP第2位の座を抜き去る存在である。
・ヒンズー教の信者が多く、仏陀も生んだ土地柄なので、信仰心や道徳心に卓越した人々が住んでいる。
・景色がものすごくきれいで雄大な大自然が、労なく見ることが出来る。
・カースト制度のため身分差別が今だにある。
などなどであった。
今回のインド渡航は、デリーとアーグラーの二都市しか回っていないので、これがインドのすべてではないという事は間違いない、それに、文中に出てくる~らしいという言い回しは、現地インド人ガイドの何人かから聞いた話である。
空気が汚い・・・デリーの空港に降り立ってまず思った事は、空気が悪いという事と、噂の子供達がいないなという事であった。子供達に関しては、インド中にはたくさんの世界からの窓口があり、それらのどこかの空港では、そのような状況なのかも知れません。
しかし空気の悪さは凄かったです。排気ガスの匂いがきつく、誇りもすごくまっているので初日にいきなり喘息の発作がでました。上の昼間の写真ですが、恐らく天候は晴れ、しかし空が見えません。デリーから200k離れたアーグラーという街に、タージマハールはあるのですが、そこでも写真のような状況です。すこし離れた建物ももやがかかったようにしか見えません。夜の写真撮影ですが、オートで撮影すると、カメラがほこりに反応して写りこんでしまうほどです。
原因は、現在主流で走っている車のほとんどが、ディーゼルエンジンである事と、24時間体制でいたるところで建設や、道路の工事を行っていることによる、粉塵にあると思います。
デリーの観光・・・デリーにはオールドデリー、ニューデリーと呼ばれる区域があり、オールドデリーはたくさんの歴史的建造物がある、それらのほとんどは世界遺産級で、順番待ち状態であるらしい。
世界遺産フマユーン廟その名の通り、ムガル帝国第2代肯定のお墓であるが、イスラム建築を見飽きた人にはただ大きいなとしか思わないと思う。初めてこれを見たら感動するかも知れない。
世界遺産クトゥブ・ミナール奴隷王朝の建国者であるクトゥブッディーン・アイバクによって、ヒンドゥー教徒との戦争に勝利した記念に建てられたもので、ヒンドゥー教・ジャイナ教の寺院などを破壊し、その石材を転用して制作されたもので、建築に携わった職人もヒンドゥー教徒であったと推測されている。そのため、ヒンドゥー様式とイスラーム様式が混在した様式となっている。ここに行くにはデリーの中心地がらタクシーで30分ほどかかる、タクシーの運転手は、私達をお土産屋さんに連れて行きたくてたまらず、ここに行くのを嫌がったがしぶしぶ連れていってもらった。まあ見ても見なくてもどちらでもよい感じではあったが、イスラムの遺跡は多数残っている中で、数少ないヒンドゥーの遺跡だと言う事なので、一見の価値もあるのかもしれない。
世界遺産ラール・キラームガル帝国の第5代皇帝シャー・ジャハーンが、自らの名を冠した新都シャージャハーナーバードにおける居城として築いた。9年の歳月をかけて1648年に完成。名称の由来ともなった城壁の赤い色は、建材として用いられた赤砂岩のものである。
以上がデリーの世界遺産であるが、インドには世界遺産クラスの建物がたくさんあり、認定の順番待ちだそうだ。
ジャーマ・マスジットインド最大規模のイスラム教のモスクであり、1656年に建設されたが、現在もイスラムの礼拝が行われており、礼拝堂の中にはイスラム教徒しか入れない、他の外国人観光客も勢いで中に入っていたが、すぐに追い出されていた。イスラム教独特の歌が高らかに流れているが、イスラム教国に行った事がある人ならいつもの歌だなという感じだ。初めて聞く人なら、感動するかも知れない。
インド門第一次世界大戦で戦死したインド兵の慰霊碑、当初はイギリスがこの戦争に勝利すれば、インドを独立させると約束していたので、この門は独立門になるはずであったが、その約束は果たされなかった為、慰霊碑になっている。壁面には戦死者の名前が刻み込まれている。
大統領官邸写真のインド門から反対に一直線に伸びた道をしばらく行くと突き当たりにある。その間の両サイドは官庁街になっており、人はほとんど歩いていない。デリーで唯一街がきれいなところだ。
バハーイ寺院イスラム系の新宗教、バハーイ教の寺院、近年建てられたらしいが、ハスの花をかたどった形は綺麗ではあった。この寺院はカーストにも宗教にもとらわれず、すべての人が祈りをささげる事が出来るらしい。
アーグラーの観光・・・デリーからバスで4時間、距離で200K離れたところにある町がアーグラーなのだが、ここにかの有名なタージマハールがある。これは絶対外せないと、日本から張り切ってツアーに申し込んでいたが、散々であった。バスで4時間どころか6時間もかかった。デリーを抜けるまでにひどい渋滞で、デリーを抜けると道が悪く、往復12時間のバス移動に疲れ果てた。朝夕一本ずつしか運行していないが、特急電車で移動すれば2時間なので、それをお勧めします。
世界遺産タージマハールムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが、ペルシャやアラブ、果てはヨーロッパから2万人もの職人を集め、22年の歳月をかけて建造させたといわれているインド=イスラーム文化の代表的建築。この建物は、シャー・ジャハンが14人の子供をもうけた後亡くなってしまった愛妃の為に建てた廟であるが、王妃は死の間際に彼に二つのお願いをしたらしい、一つは自分の事をいつまでも忘れないような思い出の物を作って欲しい、二つ目は死後も再婚しないで欲しいという事であったが、その二つともを彼は守った。一つ目の約束で、この廟を作ったわけであるが、彼本人だけではなく、現在の私達も忘れる事ができないほどの物を作ってしまうとは、やりすぎである。
まさに威風堂々とした面持ちで、今まで見たイスラム寺院や建築物の中で最大級であった。人が点のようにしか見えません。ヨーロッパ中から2万人もの職人を集め作られたというのも凄いが、22年も完成までにかかったというのも凄いです。当時の王の力とムガル帝国の国力が、うかがい知る事が出来ます。色が白いのは総白大理石造りだからです、そしてよく見ると随所にサファイヤや色石を使った装飾や、大理石を掘り込んだ彫刻がほどこされています。完成当時はもっと真っ白だったんでしょうね、現在は前述のように、空気が悪く汚れが目立ちます、それに酸性雨が大理石を溶解するようです。空気の汚れと、入場までの街の汚さ、また入場してからもまとわりついてくるお金目当てのインド人達にうんざりしながらこの建物を見ていたせいか、今のインドの現状とのギャップがあまりにもありすぎて、とても浮いた存在に見えました。しかしながらバスで6時間もかけてせっかく来たのだからと思い、写真はたくさんとりました。
裏手のヤムナー河を挟んだ対岸に、基礎工事だけ済んだ、台座が残っているが、これは彼自身が死後安置されるはずであった総黒大理石の廟を建設する予定地である。計画は王位を継承した息子によって中止に追い込まれたが、もし完成していたら、この巨大な建物が白と黒と対になって、それはもう世界でもっとも貴重な世界遺産になっていたかも知れない。それこそここまできたらぜひ見てみたかったという気持ちが本音だ。計画では対になった廟の間に橋を渡し、世界が終焉を迎えたとき、神による裁きの時に復活したお互いが、再会を果たそうと思ったらしい。イスラムもキリストもハルマゲドンと復活の考え方は似ている。彼の黒い廟建設の夢はかなわなかったが、遺体を収めた棺は王妃の隣に葬られたので、復活の時を待たずして彼の夢はある意味かなったのかも知れない。
世界遺産アーグラー城シャージャハンが王位を譲った息子に幽閉されていた、ムガル帝国の城である。デリーのラール・キラーと共に赤い城と呼ばれている。シャージャハンはこの城の塔からタージ・マハールを毎日眺めていたらしい。しかしシャー・ジャハンという王様、これらの世界遺産の3つに関係し、内二つは自身の建設したものと言うのが凄いです。
本日はここまで、もっと書きたかったですが、観光編という事でお許しください。
・空港を降りると子供達がお金を頂戴とまとわりついてくるので、対策としては、小銭を用意しておき、それをばらまいて、子供達が拾っている間に逃げなければならない。
・ガンジス川を見ると、今までの人生観が変わり、日本に帰ってきたくなくなるという事を何人かに聞いた事がある。
・ブリックスの一つであるインドは近い将来日本のGDP第2位の座を抜き去る存在である。
・ヒンズー教の信者が多く、仏陀も生んだ土地柄なので、信仰心や道徳心に卓越した人々が住んでいる。
・景色がものすごくきれいで雄大な大自然が、労なく見ることが出来る。
・カースト制度のため身分差別が今だにある。
などなどであった。
今回のインド渡航は、デリーとアーグラーの二都市しか回っていないので、これがインドのすべてではないという事は間違いない、それに、文中に出てくる~らしいという言い回しは、現地インド人ガイドの何人かから聞いた話である。
空気が汚い・・・デリーの空港に降り立ってまず思った事は、空気が悪いという事と、噂の子供達がいないなという事であった。子供達に関しては、インド中にはたくさんの世界からの窓口があり、それらのどこかの空港では、そのような状況なのかも知れません。
しかし空気の悪さは凄かったです。排気ガスの匂いがきつく、誇りもすごくまっているので初日にいきなり喘息の発作がでました。上の昼間の写真ですが、恐らく天候は晴れ、しかし空が見えません。デリーから200k離れたアーグラーという街に、タージマハールはあるのですが、そこでも写真のような状況です。すこし離れた建物ももやがかかったようにしか見えません。夜の写真撮影ですが、オートで撮影すると、カメラがほこりに反応して写りこんでしまうほどです。
原因は、現在主流で走っている車のほとんどが、ディーゼルエンジンである事と、24時間体制でいたるところで建設や、道路の工事を行っていることによる、粉塵にあると思います。
デリーの観光・・・デリーにはオールドデリー、ニューデリーと呼ばれる区域があり、オールドデリーはたくさんの歴史的建造物がある、それらのほとんどは世界遺産級で、順番待ち状態であるらしい。
世界遺産フマユーン廟その名の通り、ムガル帝国第2代肯定のお墓であるが、イスラム建築を見飽きた人にはただ大きいなとしか思わないと思う。初めてこれを見たら感動するかも知れない。
世界遺産クトゥブ・ミナール奴隷王朝の建国者であるクトゥブッディーン・アイバクによって、ヒンドゥー教徒との戦争に勝利した記念に建てられたもので、ヒンドゥー教・ジャイナ教の寺院などを破壊し、その石材を転用して制作されたもので、建築に携わった職人もヒンドゥー教徒であったと推測されている。そのため、ヒンドゥー様式とイスラーム様式が混在した様式となっている。ここに行くにはデリーの中心地がらタクシーで30分ほどかかる、タクシーの運転手は、私達をお土産屋さんに連れて行きたくてたまらず、ここに行くのを嫌がったがしぶしぶ連れていってもらった。まあ見ても見なくてもどちらでもよい感じではあったが、イスラムの遺跡は多数残っている中で、数少ないヒンドゥーの遺跡だと言う事なので、一見の価値もあるのかもしれない。
世界遺産ラール・キラームガル帝国の第5代皇帝シャー・ジャハーンが、自らの名を冠した新都シャージャハーナーバードにおける居城として築いた。9年の歳月をかけて1648年に完成。名称の由来ともなった城壁の赤い色は、建材として用いられた赤砂岩のものである。
以上がデリーの世界遺産であるが、インドには世界遺産クラスの建物がたくさんあり、認定の順番待ちだそうだ。
ジャーマ・マスジットインド最大規模のイスラム教のモスクであり、1656年に建設されたが、現在もイスラムの礼拝が行われており、礼拝堂の中にはイスラム教徒しか入れない、他の外国人観光客も勢いで中に入っていたが、すぐに追い出されていた。イスラム教独特の歌が高らかに流れているが、イスラム教国に行った事がある人ならいつもの歌だなという感じだ。初めて聞く人なら、感動するかも知れない。
インド門第一次世界大戦で戦死したインド兵の慰霊碑、当初はイギリスがこの戦争に勝利すれば、インドを独立させると約束していたので、この門は独立門になるはずであったが、その約束は果たされなかった為、慰霊碑になっている。壁面には戦死者の名前が刻み込まれている。
大統領官邸写真のインド門から反対に一直線に伸びた道をしばらく行くと突き当たりにある。その間の両サイドは官庁街になっており、人はほとんど歩いていない。デリーで唯一街がきれいなところだ。
バハーイ寺院イスラム系の新宗教、バハーイ教の寺院、近年建てられたらしいが、ハスの花をかたどった形は綺麗ではあった。この寺院はカーストにも宗教にもとらわれず、すべての人が祈りをささげる事が出来るらしい。
アーグラーの観光・・・デリーからバスで4時間、距離で200K離れたところにある町がアーグラーなのだが、ここにかの有名なタージマハールがある。これは絶対外せないと、日本から張り切ってツアーに申し込んでいたが、散々であった。バスで4時間どころか6時間もかかった。デリーを抜けるまでにひどい渋滞で、デリーを抜けると道が悪く、往復12時間のバス移動に疲れ果てた。朝夕一本ずつしか運行していないが、特急電車で移動すれば2時間なので、それをお勧めします。
世界遺産タージマハールムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが、ペルシャやアラブ、果てはヨーロッパから2万人もの職人を集め、22年の歳月をかけて建造させたといわれているインド=イスラーム文化の代表的建築。この建物は、シャー・ジャハンが14人の子供をもうけた後亡くなってしまった愛妃の為に建てた廟であるが、王妃は死の間際に彼に二つのお願いをしたらしい、一つは自分の事をいつまでも忘れないような思い出の物を作って欲しい、二つ目は死後も再婚しないで欲しいという事であったが、その二つともを彼は守った。一つ目の約束で、この廟を作ったわけであるが、彼本人だけではなく、現在の私達も忘れる事ができないほどの物を作ってしまうとは、やりすぎである。
まさに威風堂々とした面持ちで、今まで見たイスラム寺院や建築物の中で最大級であった。人が点のようにしか見えません。ヨーロッパ中から2万人もの職人を集め作られたというのも凄いが、22年も完成までにかかったというのも凄いです。当時の王の力とムガル帝国の国力が、うかがい知る事が出来ます。色が白いのは総白大理石造りだからです、そしてよく見ると随所にサファイヤや色石を使った装飾や、大理石を掘り込んだ彫刻がほどこされています。完成当時はもっと真っ白だったんでしょうね、現在は前述のように、空気が悪く汚れが目立ちます、それに酸性雨が大理石を溶解するようです。空気の汚れと、入場までの街の汚さ、また入場してからもまとわりついてくるお金目当てのインド人達にうんざりしながらこの建物を見ていたせいか、今のインドの現状とのギャップがあまりにもありすぎて、とても浮いた存在に見えました。しかしながらバスで6時間もかけてせっかく来たのだからと思い、写真はたくさんとりました。
裏手のヤムナー河を挟んだ対岸に、基礎工事だけ済んだ、台座が残っているが、これは彼自身が死後安置されるはずであった総黒大理石の廟を建設する予定地である。計画は王位を継承した息子によって中止に追い込まれたが、もし完成していたら、この巨大な建物が白と黒と対になって、それはもう世界でもっとも貴重な世界遺産になっていたかも知れない。それこそここまできたらぜひ見てみたかったという気持ちが本音だ。計画では対になった廟の間に橋を渡し、世界が終焉を迎えたとき、神による裁きの時に復活したお互いが、再会を果たそうと思ったらしい。イスラムもキリストもハルマゲドンと復活の考え方は似ている。彼の黒い廟建設の夢はかなわなかったが、遺体を収めた棺は王妃の隣に葬られたので、復活の時を待たずして彼の夢はある意味かなったのかも知れない。
世界遺産アーグラー城シャージャハンが王位を譲った息子に幽閉されていた、ムガル帝国の城である。デリーのラール・キラーと共に赤い城と呼ばれている。シャージャハンはこの城の塔からタージ・マハールを毎日眺めていたらしい。しかしシャー・ジャハンという王様、これらの世界遺産の3つに関係し、内二つは自身の建設したものと言うのが凄いです。
本日はここまで、もっと書きたかったですが、観光編という事でお許しください。
日本最高!!~インドから帰ってきました~
2008年11月11日
本日インドより戻ってまいりました。まず日本に帰ってきて感じたことは、空気がうまい、これにつきます。成田が東京から少し離れているせいもあるかもしれませんが、本当に深く深呼吸が出来ました。インドと言っても今回はデリーとアーグラーという街にしか行きませんでしたので、インドのすべての街の空気が悪いわけではないでしょうが、それらの街の空気は最悪でした。信じられないと思いますが、はっきりと人や建物の輪郭がつかめる距離は約20mまでで、それ以降の距離は、もやがかかったようにしか見えません。天気は恐らく晴れであろうにもかかわらず、体験したことはありませんが、砂嵐の中にいるようでした、ですので滞在中は、空を見ていません。もちろん雲もです。
先日の唐津くんちでお邪魔した家の一軒が、猫を数匹飼われているという事で、猫の毛、ほこりアレルギーの私はそれに反応し、喘息の発作がおきてしまいましたが、インド滞在期間中は、毎日の発作に悩まされました。
いろんなエピソードは得意の追記シリーズで報告していきたいと思いますのでよろしくお願いいたします。
先日の唐津くんちでお邪魔した家の一軒が、猫を数匹飼われているという事で、猫の毛、ほこりアレルギーの私はそれに反応し、喘息の発作がおきてしまいましたが、インド滞在期間中は、毎日の発作に悩まされました。
いろんなエピソードは得意の追記シリーズで報告していきたいと思いますのでよろしくお願いいたします。
インド~JCI世界会議ニューデリー大会3~
2008年11月10日
昨日は、朝からゆったりと過ごした。ホテルで朝食を食べ、セミナー会場に向かい、いくつかのセミナーを見学し、ランチを食べた。昼からは買い物に出かけ、江口君と二人して悲劇にあったが、夜のJCI会頭主催晩餐会はとても楽しく、インドで過ごした時間の中で一番であった。
今日はゆっくり博物館を見学しようと思います。
今日はゆっくり博物館を見学しようと思います。
インド~JCI世界会議ニューデリー大会2~
2008年11月09日
昨日は、早朝7時から夜9時までの間の11時間はバスに乗るという忍耐の一日でした。
インドと言えばタージマハールと思い、日本からオプショナルツアーを申し込んでいたのですが、道がかなり混んでいたのと、道路事情の悪さとバスのボロさも手伝って、行きは6時間、帰りは5時間もかかりました。タージマハールは、デリーより200km離れたアーグラーという街にあるのですが、通常なら電車で2時間(しかしこの特急は早朝と夜の一日2本)バスで4時間という話です。まあ折角インドに着たので、有名なタージマハールが見れただけでも良しとしときましょう。
夜はホテル着後に大急ぎでナショナルナイトに行きました、昨夜はインドナイトとチュニジアナイトが開催されました。
それでは今日も手抜きの写真集でお許しください。
インドと言えばタージマハールと思い、日本からオプショナルツアーを申し込んでいたのですが、道がかなり混んでいたのと、道路事情の悪さとバスのボロさも手伝って、行きは6時間、帰りは5時間もかかりました。タージマハールは、デリーより200km離れたアーグラーという街にあるのですが、通常なら電車で2時間(しかしこの特急は早朝と夜の一日2本)バスで4時間という話です。まあ折角インドに着たので、有名なタージマハールが見れただけでも良しとしときましょう。
夜はホテル着後に大急ぎでナショナルナイトに行きました、昨夜はインドナイトとチュニジアナイトが開催されました。
それでは今日も手抜きの写真集でお許しください。
インド~JCI世界会議ニューデリー大会~
2008年11月08日
昨日はこんな一日でした。↓
とても内容がありすぎて、本文を書けません、詳細は帰国後でお許しください。
前日お伝えしたとおり、大変空気が悪く、今期二度目の喘息の発作が起きました。
今日も一日頑張ります。ちなみにこちらはただ今午前7時です。
とても内容がありすぎて、本文を書けません、詳細は帰国後でお許しください。
前日お伝えしたとおり、大変空気が悪く、今期二度目の喘息の発作が起きました。
今日も一日頑張ります。ちなみにこちらはただ今午前7時です。
インドに着きました。
2008年11月07日
早朝5時に自宅を出発してから14時間後、私たちは目的地、インドのデリーへ到着しました。
今年の世界会議は、ここインドはデリーで開催されています。
インドは凄くもやがかかっています。到着時刻は現地時刻の午後6時であるにもかかわらず、あたりは真っ暗です。季節だけが原因ではないと明らかにわかるもやのかかり方で、喘息もちの私にはかなり辛いです。時差は日本と3時間半、現在ブログを書いている私のインドでの時間は、午前2時半です。日本ではもう早朝6時ですね。
空港から宿泊先のインターコンチネンタルホテルへ向かい、日本JC本部団がいる、アシュラートホテルへ登録証を取りに行きました。昼間の催しには参加できませんでしたが、夜のナショナルナイトパーティーには出席しなければと思い、また別会場に向かいました。今夜はUSAナイト、アメリカナイト、アフリカナイトが開催されていました。
それではアフリカの方と記念写真をっと思いきやあなたは唐津JCの野崎さんじゃありませんかすっかり溶け込んでいられたのですぐには気づきませんでした。しかも唐津から単独での参加ということで・・・すっごい!!(江口君談)
一通り会場の雰囲気を楽しんだ後、街のレストランで、本場のカレーとタンドリー料理を食べました。ナショナルナイト会場から出た所で拾ったタクシーのドライバーがとても気さくな感じな人だったので、お勧めのレストランと明日のガイドも頼みました。
8時間貸切で、1600ルピー、現在1ルピーは2.3円ほどです。これは安いのか高いのか、こちらの物価をまだ把握していないので良くわかりませんが、日本の感覚なら安いですよね。
しかし冒頭にも述べましたが、インドは大変もやがかっていて、遠くがまったく見えません。建設ラッシュで工事も24時間しても良いらしく、音もうるさいです。タクシーに乗っていると、うっすらと遠くに何やらエスニックな建物や、歴史を感じさせる建物が見え隠れしていました。明日の夜明けが楽しみです。
それでは皆様ナマステ~~~~
今年の世界会議は、ここインドはデリーで開催されています。
インドは凄くもやがかかっています。到着時刻は現地時刻の午後6時であるにもかかわらず、あたりは真っ暗です。季節だけが原因ではないと明らかにわかるもやのかかり方で、喘息もちの私にはかなり辛いです。時差は日本と3時間半、現在ブログを書いている私のインドでの時間は、午前2時半です。日本ではもう早朝6時ですね。
空港から宿泊先のインターコンチネンタルホテルへ向かい、日本JC本部団がいる、アシュラートホテルへ登録証を取りに行きました。昼間の催しには参加できませんでしたが、夜のナショナルナイトパーティーには出席しなければと思い、また別会場に向かいました。今夜はUSAナイト、アメリカナイト、アフリカナイトが開催されていました。
それではアフリカの方と記念写真をっと思いきやあなたは唐津JCの野崎さんじゃありませんかすっかり溶け込んでいられたのですぐには気づきませんでした。しかも唐津から単独での参加ということで・・・すっごい!!(江口君談)
一通り会場の雰囲気を楽しんだ後、街のレストランで、本場のカレーとタンドリー料理を食べました。ナショナルナイト会場から出た所で拾ったタクシーのドライバーがとても気さくな感じな人だったので、お勧めのレストランと明日のガイドも頼みました。
8時間貸切で、1600ルピー、現在1ルピーは2.3円ほどです。これは安いのか高いのか、こちらの物価をまだ把握していないので良くわかりませんが、日本の感覚なら安いですよね。
しかし冒頭にも述べましたが、インドは大変もやがかっていて、遠くがまったく見えません。建設ラッシュで工事も24時間しても良いらしく、音もうるさいです。タクシーに乗っていると、うっすらと遠くに何やらエスニックな建物や、歴史を感じさせる建物が見え隠れしていました。明日の夜明けが楽しみです。
それでは皆様ナマステ~~~~
唐津くんち
2008年11月05日
11月3日、午前のバルーンイベントと、夜の夜間係留の合間をぬって、唐津くんちに行って参りました。
恥ずかしながらというか、過去唐津くんちの開催日程と、行事がことごとく重なり行くことが出来ませんでした。今回全貌を見ることは出来ませんでしたが、初めてそのさわりだけを見ることが出来ました。
見てみるまで私が唐津くんちに対して持っていたイメージは、そこまでの人で賑わってはいないであろうという事と、人から聞いた、知らない人の家に引きづりこまれてごちそうを振舞われるいうことでした。
唐津に到着してみると、予想をくつがえす、人出に驚きました。そしてだれかれかまわず家にあげるわけではなく、知人を通じて知らない人もあげることはあるという説明でした。しかし、ご馳走のハシゴと唐津青年会議所メンバーがたくさんこの祭りに参加していることにも驚きました。この祭りに、唐津青年会議所の元気の原点があるのだとわかりました。見たら納得ですよ本当に。
以下私が回った家々のご馳走と、唐津青年会議所メンバーの面々です。
各家を回って見ると、このどんちゃん騒ぎが丸二日間催されるということに驚きました。
また、見ず知らずの人を家にあげて、ご馳走を振舞うという私が佐賀で聞いた話もあながち嘘ではなかったなと思いました。そう言えば、そんな話をしていたのはたいてい女の子であったなと思い出しました。どういうことかな、そのからくりを知りたい女性陣はぜひ体感する事をお勧めします。身体に危険が及ぶことはないと思います。
次回は腰をすえてお邪魔したいと思うような、大騒ぎなお祭りでした。
以下フォトギャラリーです。
唐津くんち、最高です。次回からは曳山の名前でも覚えてから参加してみようかと思います。
バルーンフェスタ~11月2日~閉会式~
2008年11月04日
10月29日に開催されたオープニングパレードから始まった、今回のバルーンフェスタは、本日ホテル創世で開催された、アワード・バンケット閉会式・表彰式をもって、全日程を終了いたしました。
今回のバルーンフェスタに、私自身ここまで足を運ぶのは初めての経験でしたが、佐賀の経済効果や、他県海外からこられたチーム、観光客の皆様への感謝の気持ち等を考えながら見た大会は始めてでした。
観客動員数も94万人を超え、最終日の最後の夜間係留も大変な人出で賑わいました。
広報委員長、木下君は競技に夜間係留にと大奮闘しておりました。この夜間係留は、モングルフィエノクチューンと題され、パイオニア提供の音楽のリズムに合わせたバーナーアクションが楽しめ、フィナーレには花火もあがるという大変幻想的でありながら大仕掛けのショーで、一見の価値ありです。
会場は早朝からすごい人出です、広報委員会、角本さんもレポートのお仕事中、元メンバーの辻さんも、例年通りフォックスチームのクルーとして参加しておりました。憩いの広場エリアでは、佐賀の名産品などの物販等も行われており、こちらも大変な人出、私の注目は、今佐賀観光協会が、ご当地グルメとして売りだそうとしている、その名もシシリアンライス!!かなりの売り上げだったらしいですが、シシリアンライスって佐賀発祥だったんですね、全国的にあるものだと思っておりました。
早朝の競技飛行終了後に行われるバルーンファンタジアも必見です。かわいらしいバルーンがたくさん並びます、そして会場にこられた観客のみなさんに、解放されて、バルーンに触れることもできます。私のお気に入りはドラえもんならぬ、バルエモンです。
大会全体を通じて感じた事は、この大会をもっともっと全国と言わず、九州中にPRして、観客動員数が増えれば良いと思うし、自信を持って案内できる大会であると言う事を感じました。それと、栄の国まつりも負けてられないと思いましたが、何か良いアイデアはないでしょうかね。
連日休日返上で奮闘されていた、市役所職員の皆様大変お疲れ様でした。
服巻ゴルフ倶楽部「かき混ぜ作戦VS鳥のアンパンマン」
2008年11月03日
先日、ぶんぶんテレビの服巻ゴルフ倶楽部の収録に行ってまいりました。佐賀青年会議所チームとして出演して欲しいと依頼があったのですが、私がゴルフがまったく駄目であることと、服巻さんに勝てば30秒のPRタイムをいただけるという事で、勝ちにいこうと思い、ゴルフ自慢の城野副理事長と古賀副理事長にピンチヒッターをお願いしました。
普段から仕事そっちのけでゴルフばかりしている、かきまぜ王子事、城野副理事長と、佐賀JCのまるちゃん事、古賀副理事長の最強コンビを投入するという事は、あまりにも大人気ないかと思いましたが、勝負事ですので、万全の体制で臨みました。
ティーショットと言うのでしょうか、かきまぜ王子の放った第一打は、あわやワンオンというスーパーショット。さすがは仕事そっちのけで・・
応援団も熱がこもります。
この勝負、一打事にペアが交互に打つのですが、一打目のスーパーショットを選択し、二打目はまるちゃんのアプローチショット。頑張れまるちゃん。
何故かかきまぜ王子のこのリアクション何が起こったんだ!!
応援団も苦笑い・・・
今回のこの勝負、佐賀青年会議所チームは、かきまぜ作戦と銘打って服巻支配人チームに挑みましたが、うまくかき混ぜる事が出来たでしょうか、結果は本日からぶんぶんテレビで放映されている服巻ゴルフ倶楽部「かき混ぜ作戦VS鳥のアンパンマン」をごらんになってください。
どんな編集になっているか楽しみです。
普段から仕事そっちのけでゴルフばかりしている、かきまぜ王子事、城野副理事長と、佐賀JCのまるちゃん事、古賀副理事長の最強コンビを投入するという事は、あまりにも大人気ないかと思いましたが、勝負事ですので、万全の体制で臨みました。
ティーショットと言うのでしょうか、かきまぜ王子の放った第一打は、あわやワンオンというスーパーショット。さすがは仕事そっちのけで・・
応援団も熱がこもります。
この勝負、一打事にペアが交互に打つのですが、一打目のスーパーショットを選択し、二打目はまるちゃんのアプローチショット。頑張れまるちゃん。
何故かかきまぜ王子のこのリアクション何が起こったんだ!!
応援団も苦笑い・・・
今回のこの勝負、佐賀青年会議所チームは、かきまぜ作戦と銘打って服巻支配人チームに挑みましたが、うまくかき混ぜる事が出来たでしょうか、結果は本日からぶんぶんテレビで放映されている服巻ゴルフ倶楽部「かき混ぜ作戦VS鳥のアンパンマン」をごらんになってください。
どんな編集になっているか楽しみです。
第27回全国地域づくり団体研修交流会佐賀大会
2008年11月01日
昨日は、アバンセで開催された、「第27回全国地域づくり団体研修交流会佐賀大会」第5回実行委員会に出席しました。第1回目の会議の案内が来ていなかったため、乗り遅れた感があり、辛いところでありますが、任期中は頑張って出席していこうと思います。
この会議には、佐賀県地域づくりネットワーク協議会に所属している、街づくり関係の団体が出席しており、平成22年に開催される、全国大会佐賀大会について、議論されています。
現在のところ、佐賀大会では、13の団体が、分科会開催に手を挙げており、それらの分科会の内容や、今年愛媛で開催される、全国大会へのキャラバン活動、PRチラシについて、話し合いました。
佐賀での全国大会の開催は、2年後でもありますし、佐賀青年会議所として、この大会への関わり方は大変微妙ですが、地域のためには何か役に立ちたいとは思います。
この会議には、佐賀県地域づくりネットワーク協議会に所属している、街づくり関係の団体が出席しており、平成22年に開催される、全国大会佐賀大会について、議論されています。
現在のところ、佐賀大会では、13の団体が、分科会開催に手を挙げており、それらの分科会の内容や、今年愛媛で開催される、全国大会へのキャラバン活動、PRチラシについて、話し合いました。
佐賀での全国大会の開催は、2年後でもありますし、佐賀青年会議所として、この大会への関わり方は大変微妙ですが、地域のためには何か役に立ちたいとは思います。
バルーンフェスタ市長歓迎レセプション
2008年10月31日
昨夜はホテルニューオオタニで開催された、バルーンフェスタ市長歓迎レセプションに出席いたしました。
各国から参加のチームの皆さんとの懇親会は、世界会議のパーティーと似たような、明るく開放的な雰囲気で、楽しく参加させてもらいました。そして今年も佐賀にやってきてくれた、ドイツのフォックスチームのアドルフ氏と一年ぶりの再会を果たしました。私は2005年にウィーンで開催された世界会議に参加した折、ウィーンに入る前にドイツに立ち寄り、彼の家に泊めてもらいました。お城や観光地も案内してもらい、その恩はここ佐賀で毎年かえそうと思っております。佐賀に暮らしていると、普段あまり外国の方と接する機会がありませんが、バルーン大会のような外国の方と接する機会は、彼らの国のことを知り、また自分達の国の事を見つめなおす良い機会ではないでしょうか。みなさんも、街で選手の方と会ったら話しかけてみてはいかがでしょうか、きっと気さくに応対してくれると思いますよ。
各国から参加のチームの皆さんとの懇親会は、世界会議のパーティーと似たような、明るく開放的な雰囲気で、楽しく参加させてもらいました。そして今年も佐賀にやってきてくれた、ドイツのフォックスチームのアドルフ氏と一年ぶりの再会を果たしました。私は2005年にウィーンで開催された世界会議に参加した折、ウィーンに入る前にドイツに立ち寄り、彼の家に泊めてもらいました。お城や観光地も案内してもらい、その恩はここ佐賀で毎年かえそうと思っております。佐賀に暮らしていると、普段あまり外国の方と接する機会がありませんが、バルーン大会のような外国の方と接する機会は、彼らの国のことを知り、また自分達の国の事を見つめなおす良い機会ではないでしょうか。みなさんも、街で選手の方と会ったら話しかけてみてはいかがでしょうか、きっと気さくに応対してくれると思いますよ。
バルーンフェスタ開会式
2008年10月30日
本日は、午前7時より開催された、2008佐賀インターナショナルバルーンフェスタの開会式に出席してまいりました。お天気はうっすらと曇り空ではありましたが、絶好のバルーン日和であると実行委員長が、ご挨拶で述べられておりました。
ゆっつら~っと佐賀を提唱する佐賀としては、このバルーン協議はまさしくうってつけであると、秀島佐賀市長がご挨拶されましたが、バルーンの飛行を見ていると、たしかにこの区域だけ、時間がゆっつら~と流れている気分になりました。
開会宣言の後、ボレロにのって、気球が一機、また一機と上空に飛び立つ様は圧巻でした。
その後、朝食会に参加し、会場を一回りしてから帰りました。会場ではメンバーの角本さんが、夕べのライトファンタジーに引き続き、レポーターとしてお仕事の真っ最中、また福岡たかまろ君も、精力的に挨拶にまわっておりました。常務の江口君は、ライオンズクラブのイベントで、献血のお手伝いと、何人かのメンバーの姿を見る事も出来ました。
佐賀青年会議所メンバーのみなさん、ちなみに我々は、この大会の後援をしておりますし、私は運営委員に就任しております。
商工会の皆さんや、観光協会の皆さんが、頑張っている姿を見ると、青年会議所も何かお手伝いをしても良いのではないかと思ってしまいましたが、それはまた昔の論争に逆戻りになりますので、その話はおいといて、ぜひ、一度は足を運んでいただきたいと思います。
ゆっつら~っと佐賀を提唱する佐賀としては、このバルーン協議はまさしくうってつけであると、秀島佐賀市長がご挨拶されましたが、バルーンの飛行を見ていると、たしかにこの区域だけ、時間がゆっつら~と流れている気分になりました。
開会宣言の後、ボレロにのって、気球が一機、また一機と上空に飛び立つ様は圧巻でした。
その後、朝食会に参加し、会場を一回りしてから帰りました。会場ではメンバーの角本さんが、夕べのライトファンタジーに引き続き、レポーターとしてお仕事の真っ最中、また福岡たかまろ君も、精力的に挨拶にまわっておりました。常務の江口君は、ライオンズクラブのイベントで、献血のお手伝いと、何人かのメンバーの姿を見る事も出来ました。
佐賀青年会議所メンバーのみなさん、ちなみに我々は、この大会の後援をしておりますし、私は運営委員に就任しております。
商工会の皆さんや、観光協会の皆さんが、頑張っている姿を見ると、青年会議所も何かお手伝いをしても良いのではないかと思ってしまいましたが、それはまた昔の論争に逆戻りになりますので、その話はおいといて、ぜひ、一度は足を運んでいただきたいと思います。
ライトファンタジー
2008年10月29日
本日は、今年で20回目を迎えたライトファンタジーへ行ってまいりました。正直申し上げると、私佐賀に来てから約20年、初めてこのイベントに参加しました。カウントダウンによる点灯式や、各団体のパレードも行われ、思いのほかの人出に驚きました。
そして、本年度こんな役職を受けていないと参加する機会もなかったであろうこのイベントに、街づくりを活動の根幹にしている事を自負している団体に所属しておきながら初めて参加すると言う事に恥ずかしさを覚えました。私は点灯式に参加し、こどもへのまなざし運動のパレードに参加しました。
画像が鮮明ではないのは、すべて携帯からの映像だからです。メモリーカードをPCから外すのを忘れてしまいました。そして普段愛用の、モバイルバイオは今期二度目の入院中です。余談はさておき、人出の多さに驚きました。栄の国まつりのパレードの比じゃありません。何を見るためにこれだけの人が集まってくるのかを分析する必要があると思います。夜だからなのか、ライトファンタジー自体に興味があるのか、はたまた子供が参加するパレードがあるので、それの付き添いの父兄さんがたくさんこられているのか。これはガラガラの中毎年おざなりに繰り広げられている栄の国まつりのパレードの、増客のヒントに繋がるのではないのかと思いました。
また、せっかく充て職で、いろんなイベントや、会議に参加しているので、次年度以降の理事長や、メンバーが、深くこれらの行事に参加出来る体制を作りたいと思いました。
ライトファンタジーの点灯式、これはもっと化けるイベントになるような予感がします。大体20回も続いているのだし、今すでに化けたといっても過言ではありませんが、まだまだ可能性を持っている気がします。
なんだかいけそうな気がする~~~~~~、あると思います。
このライトファンタジー、1月11日(日)まで毎日午後6時より9時まで開催されています。
中尾修君の結婚式
2008年10月26日
昨日は鹿島青年会議所の中尾修君の結婚式に出席いたしました。先週は、日曜の鹿島青年会議所50周年、憲法タウンミーティング、池田昌寛君の送別会等、毎日続く飲酒の機会に肝臓が悲鳴をあげております。
彼の、明るい人柄と、由緒正しい祐徳稲荷神社の参道で、立花屋を経営する事もあり、出席者は400人余りで、大変大きな披露宴、且つ、最近私が出席する披露宴ではほとんどお目にかかれなくなった、箪笥長持ち歌、お謡い三番、相撲甚句など、古式ゆかしい披露宴でありました。
最初から最後まで、中尾君は青年会議所のせの字も出さず、JCのJの字も出さずに披露宴を通したことは、今後の彼のJCライフに暗い影を落とさなければ良いがと心配しました(笑)
ちなみに今週も休肝日はありません。
彼の、明るい人柄と、由緒正しい祐徳稲荷神社の参道で、立花屋を経営する事もあり、出席者は400人余りで、大変大きな披露宴、且つ、最近私が出席する披露宴ではほとんどお目にかかれなくなった、箪笥長持ち歌、お謡い三番、相撲甚句など、古式ゆかしい披露宴でありました。
最初から最後まで、中尾君は青年会議所のせの字も出さず、JCのJの字も出さずに披露宴を通したことは、今後の彼のJCライフに暗い影を落とさなければ良いがと心配しました(笑)
ちなみに今週も休肝日はありません。
鹿島青年会議所50周年~記念式典・祝賀会~
2008年10月21日
10月19日(日)(社)鹿島青年会議所創立50周年記念大会に出席してまいりました。
鹿島と言えば、面浮流、行成浮流保存会の皆様の、演舞から始まった記念式典は、大変締まった式典であった。
50周年記念事業エコゾチックかしまのエコゾー君のプロモーションビデオは愉快であった。
スポンサーである、佐賀青年会議所への感謝状をいただき、私も僭越ながら、祝辞をのべさせていただきました。いきなりの振りでしたが、嫌いじゃないので心地よくお話させていただきました。
歴代理事長の皆様が登壇され、皆さん政財界でバリバリ活躍されており、鹿島青年会議所の歴史の厚みを実感いたしました。
祝賀会は、歴代理事長成松先輩の清川で開催されましたが、式典とはうって変わって終始和やかな雰囲気で開催されました。
みなさん、靴でお酒を飲まれているのですが、大真面目です。鹿島青年会議所伝統芸の靴酒です。私も新入会員の時に、鹿島へお邪魔したさい、桑原市長にご挨拶へ伺ったところ、開口一番、「新入会員か、靴を脱げ」と言われ、何故靴を脱がなければいけないのか理解するのに、そう時間を要することもなく、お酒を注がれました。ありがたく飲み干した後に、返杯をしようとしたのですが、うまくはぐらかされたのを今でも覚えています。今回ようやく積年の目標であった(笑)リベンジを果たすことが出来ました。しかしこの靴酒は、本当に鹿島青年会議所の伝統なのである、OBの皆さんも喜んで壇上に登り、次々と靴酒のリレーが行われました。
2003年、私がブロックの委員長として出向していた当時のブロック会長、西の龍事、中島先輩ともお会いすることが出来ました。
帰りに記念品をいただいたのですが、中身はなんと、50th aniniversary KASHIMA JC と書かれた10cmくらいの靴の焼き物でした。鹿島JCは、本当に靴酒を伝統芸として継承していくつもりなんだと思いました。あの懇親会での靴酒の盛り上がりがあったからこそですが、記念品の中身を見たときに、自然と笑みがこぼれ、ほのぼのとした気持ちになりました。鹿島青年会議所の皆様50周年誠におめでとうございます。ところで松浦理事長、この記念品、何に使うの?
鹿島と言えば、面浮流、行成浮流保存会の皆様の、演舞から始まった記念式典は、大変締まった式典であった。
50周年記念事業エコゾチックかしまのエコゾー君のプロモーションビデオは愉快であった。
スポンサーである、佐賀青年会議所への感謝状をいただき、私も僭越ながら、祝辞をのべさせていただきました。いきなりの振りでしたが、嫌いじゃないので心地よくお話させていただきました。
歴代理事長の皆様が登壇され、皆さん政財界でバリバリ活躍されており、鹿島青年会議所の歴史の厚みを実感いたしました。
祝賀会は、歴代理事長成松先輩の清川で開催されましたが、式典とはうって変わって終始和やかな雰囲気で開催されました。
みなさん、靴でお酒を飲まれているのですが、大真面目です。鹿島青年会議所伝統芸の靴酒です。私も新入会員の時に、鹿島へお邪魔したさい、桑原市長にご挨拶へ伺ったところ、開口一番、「新入会員か、靴を脱げ」と言われ、何故靴を脱がなければいけないのか理解するのに、そう時間を要することもなく、お酒を注がれました。ありがたく飲み干した後に、返杯をしようとしたのですが、うまくはぐらかされたのを今でも覚えています。今回ようやく積年の目標であった(笑)リベンジを果たすことが出来ました。しかしこの靴酒は、本当に鹿島青年会議所の伝統なのである、OBの皆さんも喜んで壇上に登り、次々と靴酒のリレーが行われました。
2003年、私がブロックの委員長として出向していた当時のブロック会長、西の龍事、中島先輩ともお会いすることが出来ました。
帰りに記念品をいただいたのですが、中身はなんと、50th aniniversary KASHIMA JC と書かれた10cmくらいの靴の焼き物でした。鹿島JCは、本当に靴酒を伝統芸として継承していくつもりなんだと思いました。あの懇親会での靴酒の盛り上がりがあったからこそですが、記念品の中身を見たときに、自然と笑みがこぼれ、ほのぼのとした気持ちになりました。鹿島青年会議所の皆様50周年誠におめでとうございます。ところで松浦理事長、この記念品、何に使うの?
佐世保青年会議所55周年~式典、祝賀会~
2008年10月18日
昨日は、佐世保青年会議所55周年式典式・祝賀会に出席してまいりました。
佐世保青年会議所は、我が佐賀青年会議所のスポンサーJCであり、周年事業には毎回ご招待いただいています。特に佐世保青年会議所は、毎年周年事業を開催されており、そのモチベーションの高さは特質すべきところだ。例えば佐賀青年会議所が2年前に50周年を迎えた時などは一年前から準備をし、その日に備えたことから、毎年開催している佐世保青年会議所の凄さはおわかりいただけるだろう。
メンバーの皆さんは、祝賀会ではハッピを着て、誰一人席につくことなく、おもてなしに徹しておられました。
中村地区会長や、曽和理事長も、先頭をきってあいさつ回りをされており、まさに大人の背中であった。佐世保青年会議所OBには、佐賀のよさこい立ち上げ時にお世話になった。現九州中国よさこい連絡会議会長の、竹本慶三先輩や、山縣先輩もいらっしゃり、今式典にも参加されておりました。大村の時理事長や、島原の松尾理事長とも、たわいもない話で盛り上がり、大変楽しい時間を過ごさせていただきました。佐賀青年会議所設立時、よさこい立ち上げ時、こどものさが検定においても、佐世保のみなさんの力によるところが多く、スポンサーJCの鏡というべき存在です。明日は、我が佐賀青年会議所がスポンサーである、鹿島青年会議所の50周年に出席してまいります。スポンサーJCの責任を佐賀青年会議所も果たさなければなりませんね。
佐世保青年会議所は、我が佐賀青年会議所のスポンサーJCであり、周年事業には毎回ご招待いただいています。特に佐世保青年会議所は、毎年周年事業を開催されており、そのモチベーションの高さは特質すべきところだ。例えば佐賀青年会議所が2年前に50周年を迎えた時などは一年前から準備をし、その日に備えたことから、毎年開催している佐世保青年会議所の凄さはおわかりいただけるだろう。
メンバーの皆さんは、祝賀会ではハッピを着て、誰一人席につくことなく、おもてなしに徹しておられました。
中村地区会長や、曽和理事長も、先頭をきってあいさつ回りをされており、まさに大人の背中であった。佐世保青年会議所OBには、佐賀のよさこい立ち上げ時にお世話になった。現九州中国よさこい連絡会議会長の、竹本慶三先輩や、山縣先輩もいらっしゃり、今式典にも参加されておりました。大村の時理事長や、島原の松尾理事長とも、たわいもない話で盛り上がり、大変楽しい時間を過ごさせていただきました。佐賀青年会議所設立時、よさこい立ち上げ時、こどものさが検定においても、佐世保のみなさんの力によるところが多く、スポンサーJCの鏡というべき存在です。明日は、我が佐賀青年会議所がスポンサーである、鹿島青年会議所の50周年に出席してまいります。スポンサーJCの責任を佐賀青年会議所も果たさなければなりませんね。
全国大会~三日目~
2008年10月13日
昨日は、大会式典と卒業式が開催されました。サブアリーナを含めると、1万人収容の浜松アリーナは超満員、別会場も用意されていたことから1万人以上は確実に参加していたと思われ、私達の組織の大きさと、私達が本気になれば、この国を変えれるんだという事が実感できる式典であった。
前日の宴の後、長戸委員長を団長とする若手有志メンバー6人が、早朝5時半から卒業生6人のために席取りに並んでくれたおかげで、一階の前列ど真ん中の席を卒業生の皆さんにプレゼントすることが出来ました。例年この席取りのために並ぶのは習慣化されているが、おととしの全国大会では、当時の理事長西岡さんと副理事長の私と席取りに並び、いつまでこんな事をしなければならないのかと、若手メンバーの参加が少ない事を話しながら並んでいたのが昨日のことのようである。今回いきのよい若手が多数参加してくれたのは大変喜ばしいことであった。
例年全国大会に参加していただいている、常陸宮同妃両殿下にもご臨席いただき、今大会も緊張感と格式の漂う良い大会でした。私は今上天皇陛下も好きであるが、昭和天皇陛下の面影をより残されている常陸宮殿下に、懐かしさを覚えます。
そしてこちらも毎年参加していただいている、我らが麻生太郎先輩は、内閣総理大臣として、今大会に出席されました。鳴り止まぬ拍手が会員みんなの、麻生先輩に対する期待の大きさと祝福の気持ちを表していました。
卒業式ではシークレットゲストで、久保田利伸さんの歌のプレゼントがありました。歌は不思議なもので、その歌を聴いた当時の事がよみがえります。特にミッシングを聞いた時には、ちょうど二十歳のバイトに明け暮れていた日々や、当時の幼い恋愛などを思い出し、せつない青春時代にタイムスリップしました。歌が終わり、壇上に卒業生が登っている姿を見て、本当だったら私もみんなと卒業なんだなと思いながら、後一年居残るのが幸せなのか、同級生のみんなと一緒に卒業したほうが良かったのかしみじみ考えました。壇上のほとんどの卒業生が泣いており、私ももらい泣きをしてしまいました。他LOMの同級生の知人が、口を揃えて私が来年居残る事をうらやましがったので、後一年居残ることが出来ることを、幸せに感じ、後の一年を大事にしようと思いました。
話に聞き入ってしまったので、写真を撮るのを忘れてしまった安里次年度会頭の話はとても良かったです。私も決して毛並みの良いJCマンではないので、彼のスピーチは大変心に響き、応援したい気持ちでいっぱいになりました。今から来年の沖縄での全国大会が楽しみです。
閉会後、アテンドの緊張から開放された、長戸委員長達数名と串揚げ屋であっという間の時間を過ごし、箱ごと鰻パイを大人買いしている服巻さん達と合流して帰路につきました。
佐賀駅には合瀬監事をはじめ、家古賀君と北村君が出迎えに来てくれていました。ありがとうございました。
今回参加したメンバーは、ぜひ今大会の素晴らしさを一人でも多くの参加出来なかったメンバーに伝え、年々参加者が増えるように努力してもらいたいと思います。
長戸委員長アテンドご苦労さまでした。
前日の宴の後、長戸委員長を団長とする若手有志メンバー6人が、早朝5時半から卒業生6人のために席取りに並んでくれたおかげで、一階の前列ど真ん中の席を卒業生の皆さんにプレゼントすることが出来ました。例年この席取りのために並ぶのは習慣化されているが、おととしの全国大会では、当時の理事長西岡さんと副理事長の私と席取りに並び、いつまでこんな事をしなければならないのかと、若手メンバーの参加が少ない事を話しながら並んでいたのが昨日のことのようである。今回いきのよい若手が多数参加してくれたのは大変喜ばしいことであった。
例年全国大会に参加していただいている、常陸宮同妃両殿下にもご臨席いただき、今大会も緊張感と格式の漂う良い大会でした。私は今上天皇陛下も好きであるが、昭和天皇陛下の面影をより残されている常陸宮殿下に、懐かしさを覚えます。
そしてこちらも毎年参加していただいている、我らが麻生太郎先輩は、内閣総理大臣として、今大会に出席されました。鳴り止まぬ拍手が会員みんなの、麻生先輩に対する期待の大きさと祝福の気持ちを表していました。
卒業式ではシークレットゲストで、久保田利伸さんの歌のプレゼントがありました。歌は不思議なもので、その歌を聴いた当時の事がよみがえります。特にミッシングを聞いた時には、ちょうど二十歳のバイトに明け暮れていた日々や、当時の幼い恋愛などを思い出し、せつない青春時代にタイムスリップしました。歌が終わり、壇上に卒業生が登っている姿を見て、本当だったら私もみんなと卒業なんだなと思いながら、後一年居残るのが幸せなのか、同級生のみんなと一緒に卒業したほうが良かったのかしみじみ考えました。壇上のほとんどの卒業生が泣いており、私ももらい泣きをしてしまいました。他LOMの同級生の知人が、口を揃えて私が来年居残る事をうらやましがったので、後一年居残ることが出来ることを、幸せに感じ、後の一年を大事にしようと思いました。
話に聞き入ってしまったので、写真を撮るのを忘れてしまった安里次年度会頭の話はとても良かったです。私も決して毛並みの良いJCマンではないので、彼のスピーチは大変心に響き、応援したい気持ちでいっぱいになりました。今から来年の沖縄での全国大会が楽しみです。
閉会後、アテンドの緊張から開放された、長戸委員長達数名と串揚げ屋であっという間の時間を過ごし、箱ごと鰻パイを大人買いしている服巻さん達と合流して帰路につきました。
佐賀駅には合瀬監事をはじめ、家古賀君と北村君が出迎えに来てくれていました。ありがとうございました。
今回参加したメンバーは、ぜひ今大会の素晴らしさを一人でも多くの参加出来なかったメンバーに伝え、年々参加者が増えるように努力してもらいたいと思います。
長戸委員長アテンドご苦労さまでした。
全国大会~二日目~
2008年10月12日
昨日はというかたった今ホテルに帰ってきたので、本日はという気分だが、今日も色々あった。12時半からのメインフォーラムに出席したが、メモリーカードをPCに入れたままホテルを出発したため、懇親会までの写真を撮ることが出来なかった。
メインフォーラムの内容は、まあそこそこであったので、なんとなく次に続く各種セミナーに出席する意欲がうせ、浜松名物の鰻を食べに行った。そんなことをしていたらすぐに大懇親会の集合時間になり、みんなでシャトルバスに揺られて浜名湖ガーデンパークに向かった。この大懇親会の会場が遠いのなんの。バスで軽く一時間はかかった。
渡辺美里さんのスペシャルライブも行われ、会場はそこそこ盛り上がっていたのだが、毎年参加するうちに目がこえたというか、何か物足りなさを感じた。
大懇親会が終わってLOMナイトを開催したが、何かいつもと雰囲気が違う。途中で気がついた、いっつもこんな会で盛り上げていた人が今日はいない、私はいつも盛り上げ役であった。各種大会や、懇親会では必ずといっていいほど人に話を振ったりお酒を飲ませたり、していたのに、理事長だからという理由で静観している自分に気づいた。別に理事長だからといって盛り上げ役をしてはいけないということはないと、開き直ってからは、違和感は消し飛んだ。何人かの卒業生の方々は、きっちりと極楽浄土へと導けたと思います。
明日は式典と卒業式が開催されます、シークレットライブは○○○○○○○、ちょうど19歳の時だっただろうか、R&Bを日本語でここまでのりのりで歌う事が出来るのかとカルチャーショックを受けた。もうサプライズゲストのネタも尽きたかと思っていたが、その手があったかと思った。明日の式典が楽しみである。
メインフォーラムの内容は、まあそこそこであったので、なんとなく次に続く各種セミナーに出席する意欲がうせ、浜松名物の鰻を食べに行った。そんなことをしていたらすぐに大懇親会の集合時間になり、みんなでシャトルバスに揺られて浜名湖ガーデンパークに向かった。この大懇親会の会場が遠いのなんの。バスで軽く一時間はかかった。
渡辺美里さんのスペシャルライブも行われ、会場はそこそこ盛り上がっていたのだが、毎年参加するうちに目がこえたというか、何か物足りなさを感じた。
大懇親会が終わってLOMナイトを開催したが、何かいつもと雰囲気が違う。途中で気がついた、いっつもこんな会で盛り上げていた人が今日はいない、私はいつも盛り上げ役であった。各種大会や、懇親会では必ずといっていいほど人に話を振ったりお酒を飲ませたり、していたのに、理事長だからという理由で静観している自分に気づいた。別に理事長だからといって盛り上げ役をしてはいけないということはないと、開き直ってからは、違和感は消し飛んだ。何人かの卒業生の方々は、きっちりと極楽浄土へと導けたと思います。
明日は式典と卒業式が開催されます、シークレットライブは○○○○○○○、ちょうど19歳の時だっただろうか、R&Bを日本語でここまでのりのりで歌う事が出来るのかとカルチャーショックを受けた。もうサプライズゲストのネタも尽きたかと思っていたが、その手があったかと思った。明日の式典が楽しみである。