「子どもへのまなざし運動」キックオフイベント
2008年04月30日
昨日は、「子どものまなざし運動」キックオフイベントに参加した。そこで、佐賀青年会議所が昨年より推奨している「こどものさが検定」について、お知らせをする時間を頂いた。
佐賀市は「佐賀市未来を託す子どもを育むための大人の役割に関する条例」を今月1日から施行した。その第4章に市民総参加子ども育成運動が記載されている。
それが「子どもへのまなざし運動」であり、そのオープニングイベントが、このキックオフイベントである。
佐賀市では、すべての大人が、子どもの育成に関心を持ち、かつ、主体的にかかわる社会「子どもへのまなざし“100%”のまち」の実現を目指し、市民総参加で子どもを育む市民運動として「子どもへのまなざし運動」を推進することを目的としている。
すばらしい取り組みであるが、逆に残念にも思う。少子高齢化が進み、昔に比べれば子どもより、大人の数が増えているのである。今後何年もその傾向が続くのは分かりきっているのにもかかわらず、逆にこのような条例や運動を行わなければ、大人と子どもの関わりが希薄化しているというのは残念である。先の大戦の後、GHQが日本人の精神性を培っている源は何かと調べたところ、日本の神道と教育勅語、3世代同居にあると思った。国家神道は天皇陛下に人間宣言を強い、教育勅語は排除、3世代同居は、親元から独立し、物質的に豊かな生活を送るアメリカのホームドラマを意図的に見せることにより、じわじわと洗脳していった。人々はマイホームを持つのが夢になり、たくさんの電化製品に囲まれ生活をするために働いた。その結果が、このような運動をわざわざ市が行わなければならない現状に結びついたのである。歴史観、道徳観、倫理観を一つの民族が共有するには3世代のコンセンサスが必要である。今のこの国の経済状態を見ていると、良くも悪くも、また親との同居が当たり前になる時代が来るのではないだろうか、高視聴率を稼ぐ、ちびまるこちゃんや、サザエさんは、3世代同居である。日本人には3世代同居を違和感なく受け止める精神性が、DNAに刻まれているように思う。
イベントには、「こどものさが検定」担当、田中委員長をはじめ、青少年育成委員会のみなさんや、メンバーも多数出席していた。広報木下委員長もお子さん連れで、いつものカメラを片手に参加していた。私たちの発表の様子は広報委員会ブログを参照していただきたい。http://naoya.sagafan.jp/
私は先日唐津の西島理事長のお嬢ちゃんに、おじちゃんと言われた。素でおじちゃんと言われたのは初めてだったので、ショックであった。何故お兄ちゃんじゃなくておじちゃんなのと聞いてみたら、白髪があるからだという答えが返ってきた。たしかにここ1、2年で白髪が増えたような気がする。私もそろそろピーターパンを卒業しておじちゃんとしての自覚を持たなければならない。
子どもの頃近所の公園で、よく野球をして遊んでいた。あの家にボールを打ち込むと、怖いおじちゃんが出てきて追いかけられるから、絶対に打ち込まないようにと暗黙のルールが存在した。しかし運悪くその家によくボールが飛び込んだ。みんなで誰が取りに行くか話し合い、その役になると、門からこっそり忍び込み、ボールを捜して、一目散に逃げ出した。しかし正直に家の人に謝ってボールを捜させてもらうと、実はその家のおじさんはとても親切で良い人であった、というような都市伝説的なエピソードは、私たちの世代には多かれ少なかれ存在したと思う。夕方になるとランニング姿でうちわを扇ぎながら、声をかけてくるおじさん、時には一球打たせてくれと話しかけてくるおじさんさえいた。子どもの頃、特に放課後遊んでいるときに関わるおじさん達は、たいてい誰かのお父さんではなく、誰も知らないおっちゃんであった。今時ランニング姿でうろうろしている大人はあまり見かけないが、今思えば何かほのぼのとした光景である。あんな時代の大人と子どもの関わりを安心して行える世の中にしなければいけないと、私(おじちゃん)は思う。
私達佐賀青年会議が提案させていただいた「こどものさが検定」は、決して子どもたちに点数を競わせる類のものではなく、わからない事、知らないことは、親に、また、おじいちゃんおばあちゃんに聞いて問題の答えを見つけ出す。3世代の会話を促進させる、ツールとして使っていただきたい。子どもたちが佐賀を知ることにより、故郷である佐賀に、誇りを持ち、親に、おじいちゃんおばあちゃんに、この国の礎を築いた先人に感謝の気持ちを持ってもらえるように促したい。国や郷土、先人や親に誇りを持つということは、自分に誇りを持つ事と同じことである。
昨日の出来事~嬉野、諫早、唐津~
2008年04月29日
会場へ向かう道中には祝いののぼりがたくさん立てられ、まさにお祝いムード一色だ。
っと思いきや、これである。
民意を聞いてというのはわかるが、その為の知事選であり県議選であるのではないだろうか。いかなる事も100対0で事を進めるのは難しいと思う。たしかに県民の血税を230億(予定)を投入するわけだから、県民の為になってもらわなければ困る。大体このような工事は予定費用を上回るものだと私は認識している。
岩田和親君、福岡たかまろ君も、県議、国会議員の立場で出席していた。
岩田君写真が小さくてごめんなさい、
そして諫早に移動し、記念式典に出席した。式典はうって変わってお祭りムードであった。
そして夜の会員会議所会議へ出席すべく、唐津へ移動した。
これが私の佐賀青年会議所理事長としての一日であった。
追記しました。またこの戦法かよ・・・
2008年04月27日


明日は朝から、九州新幹線西九州ルート武雄温泉・諫早間 建設工事起工式・記念式典に出席のため朝から嬉野と諫早、夜は会員会議所会議で唐津と、楽しいことがたくさん。
っで何を追記したかというと、新營JC交流~エピローグ~
http://hashizume.sagafan.jp/e22586.htmlきっちり〆ました。
そしておざなりになっていた、早速会議
http://hashizume.sagafan.jp/e22752.htmlこれは今から頑張ります。一時間以内にはなんとか。
バーンアウト
2008年04月26日
夕べは楽しい飲み会に出席した。
センチメンタルになっていた私は、気分転換に良いかなと思っていた。
夜の街を歩くと、会うわ会うわJCメンバー!!
理事長~!!僕たちホッタしてました~!!
こらこらまた思い出してしまうじゃないか

センチメンタルになっていた私は、気分転換に良いかなと思っていた。
夜の街を歩くと、会うわ会うわJCメンバー!!

理事長~!!僕たちホッタしてました~!!
こらこらまた思い出してしまうじゃないか

早速会議
2008年04月25日
昨日は会議会議の一日であった。まずは、栄の国祭り常任委員会・事務局合同会議、そして環有明7LOM会議だ。



すでにこの会議は今年4回目を数えるが、ちょうど他の行事に重なりブログに登場することはなかった。この会議は毎年8月第一週の土日に開催される、「栄の国まつり」の運営方の会議だ。この上に、栄の国祭り振興会という組織があり、そこの各団体の長ではなく、実行部隊が出席し、今年の「栄の国祭り」の運営を話し合う会議だ。
佐賀青年会議所の理事長は、2005年からこの会議の常任委員長を務めている、私はYOSAKOIさがネットワーク実行委員会の委員長を2004年から勤めているのだが、今年はそちらを岩田君にお任せして、こちらに専念しなければならない。
まちづくり委員会、松尾委員長。国際交流委員会の新營JC受け入れ事業も終わり、「栄の国祭り」に向けてそろそろエンジン始動だ。このブログにも露出する回数が今後増えるだろう。
そして夜は荒尾で環有明7LOM会議が開催された。

http://hashizume.sagafan.jp/e16866.html←前回の会議の内容はこれ。
今回は前回の内容をより具体化し、委員会設立の準備委員会設立が承認された。有明海を共有財産にする我々が、どんな地域活性化事業が出来るか楽しみである。


ブロックの壁を超えた、熊本、福岡、佐賀の三県にまたがる、各LOMが連携し、共同事業をする事は、新しい発見と可能性があるような気がする。
すでにこの会議は今年4回目を数えるが、ちょうど他の行事に重なりブログに登場することはなかった。この会議は毎年8月第一週の土日に開催される、「栄の国まつり」の運営方の会議だ。この上に、栄の国祭り振興会という組織があり、そこの各団体の長ではなく、実行部隊が出席し、今年の「栄の国祭り」の運営を話し合う会議だ。
佐賀青年会議所の理事長は、2005年からこの会議の常任委員長を務めている、私はYOSAKOIさがネットワーク実行委員会の委員長を2004年から勤めているのだが、今年はそちらを岩田君にお任せして、こちらに専念しなければならない。
そして夜は荒尾で環有明7LOM会議が開催された。
http://hashizume.sagafan.jp/e16866.html←前回の会議の内容はこれ。
今回は前回の内容をより具体化し、委員会設立の準備委員会設立が承認された。有明海を共有財産にする我々が、どんな地域活性化事業が出来るか楽しみである。
新營JC交流~エピローグ~
2008年04月24日
佐賀青年会議所に、新營JC旋風を巻き起こし、お互いの再会を誓い合う感動のお見送り会http://naoya.sagafan.jp/e22311.htmlを終え、この事業は終了するはずであった・・・
5泊6日で来日した彼らは、初日福岡泊、2,3日目佐賀泊、フェリー泊、大阪一泊の行程で、当初佐賀の2泊で交流するはずであった。しかし折角近隣の福岡に宿泊しているのに、ほったらかしもないだろうと、急遽福岡での懇親会も計画された。実は事前に関西国際空港から飛び立つ彼らを見送りに行こうと、相原委員長と私は決めていた。
大阪での二日目の大阪城はわかるが、初日の「環球影城」(全日遊)が解らないので、現地から来たガイドさんに確認してみたら、USJの事であった。
なるほどね~環球(ユニバーサル)影城(スタジオ)か~しかもはっきり決まっているのはUSJと翌日の大阪城だけで、後は流動的に動くという、食事をする場所も決まっておらず、どこに行くかの計画もないという。・・・
大阪→地元(私の)→どうせ元々関空に見送りに行くし→USJにいきなり現れたら喜ぶだろうな→よしUSJから行こ!!!
っとなった訳である。

USJには私と、大阪に一度も行った事がない、観光気分全開の村塚室長しかも無銭、そして本当に常に務めてくれる江口常務の3人で行った。この大阪で、新營JCから江口常務は「クワイエット」というあだ名を付けられた。「クワイエット」って・・・・

そして橋詰空(チャウチーコン)と村塚(ムラ)江口(クワイエット)の三人は彼らとの再会にさらにサプライズを加えようと準備をした。


う~んこれだけでは弱い(何が?)・・・

どうだ~!!
これなら驚きも倍増だと勢い勇んで彼らを探す事にした。
探し出して5分もたたないうちに、反対側から同じようにかぶりものをした団体が歩いて来た。わ~結構こんな人がいるもんだなと思い、これではあまり驚いてもらえないねと話をしながら歩いていくと。はい、ご想像通り・・・・・彼らだった。

新營JCのみんなは大変驚いてくれた。恒例の写真撮影会が始まり、まあ立ち話もなんだしUSJを楽しもうと促した。

再開を喜ぶ笑顔、笑顔、笑顔・・・




そして奇妙な一団の、楽しいUSJの始まりである。

お約束の、「ビーコンだ~」
ブ~
もちろん最前列

陳委員長が、国際交流室のスタッフジャンバーを、普段着兼、カッパ代わりに着用し、本当に役に立つわ~っと言っていた。


全員ビショビショになったのだが、この前にもう一つのサプライズがあった。佐賀から、さらに二人駆けつけたのである。濡れようがどうしようが、もう関係ないのである。
○○を○○して駆けつけたので、写真を公開出来ないのが残念である。○○を○○して駆けつけた方々、ばれない程度にコメントお願いします。


捕まっちゃうよ~E.T
そしてE.Tが赤く光った!!
飛んだ~
パ~パ~パラララパ~パ~
最後にはE.Tが「サガ、シンイン、フレンド」大成功
ありがとうE.T
ターミネーターでは絶対遠くから来た合戦で、台湾を言えば勝てるだろうと目論んでいたが、なんと台湾ではなくタイから来た方がいて、勝てなかった。またおばちゃんに鼻で笑われてしまった。

スパイダーマンには記念写真が用意されている、カメラ位置を覚えている私は3Dカメラをはずしてパチッ!!
王さんの奥さんはこんな高いの買わなくてもデジカメで撮ればいいのよと、出口のモニターを撮影していた。もちろん係りの人に怒られたが、日本語なんで通じない!!台湾の人に限らず海外の人はお金をかけるところの感覚が違うのである。彼らはこんな写真やブランド物など全く興味はないが、現地の家など恐ろしく大きいのだ。日本人が、全身ブランド物でも、家が小さかったりするのには、理解出来ないだろう。たしかにそうだ、かばんはかばんで、時計は時計である。
ここで楊会長が、実は乗り物が怖いということが、判明!!それならこれしかないでしょう。


そして選曲はこれしかないでしょう。全員で統一し、大合唱でコースターは上っていった。みんなで手を繋ぎ、両手を挙げ続けなければならないルールであったが、楊会長の物凄い力で降ろされてしまった。
直後の楊会長、もう二度と乗り物に乗ることはなかった。なかなかこの写真を撮らせてもらえなかった。カメラを構えるとすぐ、笑顔でピースしてしまうんだもの。
もう一回乗ろうの呼びかけに答えた3人組、ミンディーは新營JCの初代会長、謝会長の娘である。1998年、佐賀空港が開港した時から佐賀には毎回来ている。現在たしか、二児の母だったと思うが、もう生まれるのではないかと思われるくらいお腹が大きい時も佐賀には来ていた。ミンディーが江口君に、「あんたクワイエットなのになかなかやるわね」と話しかけたが、ここでも江口君はクワイエットであった。


ここで○○二人組みと別れ、道頓堀まで夕食へ出発。心斎橋を練り歩く、異様な集団。



急いで18人一緒に座れる店を確保した。彼らはばらばらになるのを極端に嫌うのである。
そして店に入ったが、大きいほうの陳君が、歩きすぎて具合が悪くなり、また捻挫をしている王さんも足が痛くなり、ガイドさんが陳君をホテルに送り、少しきまづい雰囲気が流れた。
ここで楊会長がなにやら挨拶をされ、みんなしきりにうなずいた。私も挨拶をしたが、ガイドさんもいないので、多分あまり通じてないと思う。挨拶の途中で拍手が来たので、そこで終わった。会が始まりしばらくすると、楊会長が立ち上がり、今日来た三人を新營JCに招待すると宣言した。奥さんがここで、ミートゥー。一同大笑い
雰囲気ががらりと変わり、いつもの感じになった。






佐賀の交流会の感想や、通訳さんの出来など、運営面でなにか粗相はなかったかと質問したりしていたら、金美齢さんのメッセージビデオの話になった。私たちには、日本語でさしさわりのない挨拶をしていたが、台湾語で話された金美齢さんのメッセージは今回の総統選の不甲斐なさや、台湾の将来を憂う大変重い話であったらしい。台湾頑張ろう!!中国じゃないでしょ!!青年会議所が頑張らなきゃ!!なんてお互い話をしていたら、今度は涙が出たくらいでは済まずに、号泣である。私と楊会長と奥さんまで号泣しながらタクシーでホテルへ帰った。そこからの記憶があまりなく、一度自分の部屋から夜景を見たいと部屋に戻った私はもう翌朝まで起きることはなかった。江口君がついていたのだが、オートロックなのでどうしようもなかったらしい。
新營JCのみんなが部屋の前まで起こしにきたらしい、楊会長は諦めが付かず、いつまでもドアを理事長と叫びながらノックしていたらしい、本当に残念だ。そして翌日に続く・・・
翌日は服のままベッドで目が覚めた。目がパンパンに腫れ、コンタクトが入らなかった。村塚室長もベッドで部屋の受話器を握りながら寝てしまったらしい。朝食会場でみんなに謝り、今日も一日頑張ろうと気合を入れなおした。

翌日の大阪城ではまたサプライズが用意されていた。
桜門の袖に、相原委員長と森田君が潜んで、新營JCのみんなが通りかかったら飛び出す作戦だ。侍の格好で刀で切りつけてくれとオーダーしていたが、それは無理みたいだった。
陳委員長を集団の最前列に押し出し、門をくぐると、相原委員長と森田君が、手洗い所の柄杓を片手に襲い掛かってきた。


陳委員長は驚いて、うれしくて泣いた。そして笑った。大成功だ。


そして昼食には新世界の串揚げ屋へ案内した。



そしてとどめにこの人、私の母の登場。母というより、おかんの登場である。
部屋に入るなり、新營JCのみんなに、ニーハオー!!大阪へ行くのに素通りはあんまりだろうと思い。新營JCを見送った後に会おうかと思ったが、昼食会場に呼び出した。ちゃんと楊会長や奥さん、陳委員長へのお土産も持参しており、気を使わせてしまった。
74歳で、楊会長と肩を組んでピースしている写真を見ると、まだまだ元気そうで、ほっとした。これには新營JCのみんなもまたよろこんでくれた。呼んでよかった。
そしていよいよ本当に最後の見送りへ向かうべくバスに乗り込んだ。


バスの中では、両理事長、委員長のお互いへの感謝と友情の挨拶で、感動の涙に包まれた。私もまた泣いてしまった。楊会長も泣いた。みんな泣いた。お互い来るのが、行くのが、当たり前と思うのではなく、今回また新營JCに来ていただいたことに感謝して泣いた。両委員長も号泣

空港までみんなで手を繋いで、泣きながら向かった。







最後の一人が見えなくなるまで、手を振り見送った。
今回の日本滞在期間中は、一日も雨が降らなかったと新營JCのみんなが喜んでいたのだが、新幹線で博多に着くと、雨が降っていた。
そこに台湾へ無事着いたと陳委員長から電話が入った。
帰宅すると、22日(火)の佐賀新聞に、彼らの記事が掲載されていた。

今回の受け入れ事業は、主賓である彼らに大変喜んでいただき、大成功であったと思う。日本語が話せる顔OBに、お前は台湾人だと最大級の賛辞を頂いた。言葉が通じない彼らとの交流で、一番感じたことは、人と人のコミュニケーションで、一番重要なのは、言葉ではなく思いやりの心であるということだ。お互い言葉が通じないから、相手が何をしてほしいのか、何を考えているのかを、相手の立場で考えようと努力する。言葉が通じると、そこが思考停止してしまうのだ。
この交流で私はまた、それを再認識した。日本にいながら、自国や他国から見た日本、世界の中の日本のおかれている立場や、思いやりの心など、たくさん考える機会を与えてくれる、彼らとの交流を絶やすわけにはいかない。
謝謝 楊会長 謝謝 新營JC
5泊6日で来日した彼らは、初日福岡泊、2,3日目佐賀泊、フェリー泊、大阪一泊の行程で、当初佐賀の2泊で交流するはずであった。しかし折角近隣の福岡に宿泊しているのに、ほったらかしもないだろうと、急遽福岡での懇親会も計画された。実は事前に関西国際空港から飛び立つ彼らを見送りに行こうと、相原委員長と私は決めていた。
大阪での二日目の大阪城はわかるが、初日の「環球影城」(全日遊)が解らないので、現地から来たガイドさんに確認してみたら、USJの事であった。
なるほどね~環球(ユニバーサル)影城(スタジオ)か~しかもはっきり決まっているのはUSJと翌日の大阪城だけで、後は流動的に動くという、食事をする場所も決まっておらず、どこに行くかの計画もないという。・・・

大阪→地元(私の)→どうせ元々関空に見送りに行くし→USJにいきなり現れたら喜ぶだろうな→よしUSJから行こ!!!
っとなった訳である。
USJには私と、大阪に一度も行った事がない、観光気分全開の村塚室長しかも無銭、そして本当に常に務めてくれる江口常務の3人で行った。この大阪で、新營JCから江口常務は「クワイエット」というあだ名を付けられた。「クワイエット」って・・・・

そして橋詰空(チャウチーコン)と村塚(ムラ)江口(クワイエット)の三人は彼らとの再会にさらにサプライズを加えようと準備をした。
う~んこれだけでは弱い(何が?)・・・
どうだ~!!
これなら驚きも倍増だと勢い勇んで彼らを探す事にした。
探し出して5分もたたないうちに、反対側から同じようにかぶりものをした団体が歩いて来た。わ~結構こんな人がいるもんだなと思い、これではあまり驚いてもらえないねと話をしながら歩いていくと。はい、ご想像通り・・・・・彼らだった。
新營JCのみんなは大変驚いてくれた。恒例の写真撮影会が始まり、まあ立ち話もなんだしUSJを楽しもうと促した。
再開を喜ぶ笑顔、笑顔、笑顔・・・
そして奇妙な一団の、楽しいUSJの始まりである。
お約束の、「ビーコンだ~」

ブ~

陳委員長が、国際交流室のスタッフジャンバーを、普段着兼、カッパ代わりに着用し、本当に役に立つわ~っと言っていた。
全員ビショビショになったのだが、この前にもう一つのサプライズがあった。佐賀から、さらに二人駆けつけたのである。濡れようがどうしようが、もう関係ないのである。
○○を○○して駆けつけたので、写真を公開出来ないのが残念である。○○を○○して駆けつけた方々、ばれない程度にコメントお願いします。

そしてE.Tが赤く光った!!



スパイダーマンには記念写真が用意されている、カメラ位置を覚えている私は3Dカメラをはずしてパチッ!!
王さんの奥さんはこんな高いの買わなくてもデジカメで撮ればいいのよと、出口のモニターを撮影していた。もちろん係りの人に怒られたが、日本語なんで通じない!!台湾の人に限らず海外の人はお金をかけるところの感覚が違うのである。彼らはこんな写真やブランド物など全く興味はないが、現地の家など恐ろしく大きいのだ。日本人が、全身ブランド物でも、家が小さかったりするのには、理解出来ないだろう。たしかにそうだ、かばんはかばんで、時計は時計である。
ここで楊会長が、実は乗り物が怖いということが、判明!!それならこれしかないでしょう。

もう一回乗ろうの呼びかけに答えた3人組、ミンディーは新營JCの初代会長、謝会長の娘である。1998年、佐賀空港が開港した時から佐賀には毎回来ている。現在たしか、二児の母だったと思うが、もう生まれるのではないかと思われるくらいお腹が大きい時も佐賀には来ていた。ミンディーが江口君に、「あんたクワイエットなのになかなかやるわね」と話しかけたが、ここでも江口君はクワイエットであった。
ここで○○二人組みと別れ、道頓堀まで夕食へ出発。心斎橋を練り歩く、異様な集団。
急いで18人一緒に座れる店を確保した。彼らはばらばらになるのを極端に嫌うのである。
そして店に入ったが、大きいほうの陳君が、歩きすぎて具合が悪くなり、また捻挫をしている王さんも足が痛くなり、ガイドさんが陳君をホテルに送り、少しきまづい雰囲気が流れた。
ここで楊会長がなにやら挨拶をされ、みんなしきりにうなずいた。私も挨拶をしたが、ガイドさんもいないので、多分あまり通じてないと思う。挨拶の途中で拍手が来たので、そこで終わった。会が始まりしばらくすると、楊会長が立ち上がり、今日来た三人を新營JCに招待すると宣言した。奥さんがここで、ミートゥー。一同大笑い


佐賀の交流会の感想や、通訳さんの出来など、運営面でなにか粗相はなかったかと質問したりしていたら、金美齢さんのメッセージビデオの話になった。私たちには、日本語でさしさわりのない挨拶をしていたが、台湾語で話された金美齢さんのメッセージは今回の総統選の不甲斐なさや、台湾の将来を憂う大変重い話であったらしい。台湾頑張ろう!!中国じゃないでしょ!!青年会議所が頑張らなきゃ!!なんてお互い話をしていたら、今度は涙が出たくらいでは済まずに、号泣である。私と楊会長と奥さんまで号泣しながらタクシーでホテルへ帰った。そこからの記憶があまりなく、一度自分の部屋から夜景を見たいと部屋に戻った私はもう翌朝まで起きることはなかった。江口君がついていたのだが、オートロックなのでどうしようもなかったらしい。
新營JCのみんなが部屋の前まで起こしにきたらしい、楊会長は諦めが付かず、いつまでもドアを理事長と叫びながらノックしていたらしい、本当に残念だ。そして翌日に続く・・・
翌日は服のままベッドで目が覚めた。目がパンパンに腫れ、コンタクトが入らなかった。村塚室長もベッドで部屋の受話器を握りながら寝てしまったらしい。朝食会場でみんなに謝り、今日も一日頑張ろうと気合を入れなおした。
翌日の大阪城ではまたサプライズが用意されていた。

陳委員長は驚いて、うれしくて泣いた。そして笑った。大成功だ。
そして昼食には新世界の串揚げ屋へ案内した。
そしてとどめにこの人、私の母の登場。母というより、おかんの登場である。
74歳で、楊会長と肩を組んでピースしている写真を見ると、まだまだ元気そうで、ほっとした。これには新營JCのみんなもまたよろこんでくれた。呼んでよかった。
そしていよいよ本当に最後の見送りへ向かうべくバスに乗り込んだ。
バスの中では、両理事長、委員長のお互いへの感謝と友情の挨拶で、感動の涙に包まれた。私もまた泣いてしまった。楊会長も泣いた。みんな泣いた。お互い来るのが、行くのが、当たり前と思うのではなく、今回また新營JCに来ていただいたことに感謝して泣いた。両委員長も号泣

空港までみんなで手を繋いで、泣きながら向かった。
最後の一人が見えなくなるまで、手を振り見送った。
今回の日本滞在期間中は、一日も雨が降らなかったと新營JCのみんなが喜んでいたのだが、新幹線で博多に着くと、雨が降っていた。
そこに台湾へ無事着いたと陳委員長から電話が入った。
帰宅すると、22日(火)の佐賀新聞に、彼らの記事が掲載されていた。
今回の受け入れ事業は、主賓である彼らに大変喜んでいただき、大成功であったと思う。日本語が話せる顔OBに、お前は台湾人だと最大級の賛辞を頂いた。言葉が通じない彼らとの交流で、一番感じたことは、人と人のコミュニケーションで、一番重要なのは、言葉ではなく思いやりの心であるということだ。お互い言葉が通じないから、相手が何をしてほしいのか、何を考えているのかを、相手の立場で考えようと努力する。言葉が通じると、そこが思考停止してしまうのだ。
この交流で私はまた、それを再認識した。日本にいながら、自国や他国から見た日本、世界の中の日本のおかれている立場や、思いやりの心など、たくさん考える機会を与えてくれる、彼らとの交流を絶やすわけにはいかない。
謝謝 楊会長 謝謝 新營JC
新營JCin佐賀二日目
2008年04月21日
二日目の予定は午前中に、佐賀JC、佐賀シニアクラブ、新營JCとの交流ソフトボール大会、千代田館での昼食、唐津城、歓迎懇親会であった。

前日の飲みすぎで、目が腫れてしまい、コンタクトが入らず、メガネでソフトボールに臨んだ。一ヶ月使っていなかった細くなった左手の状態が不安であったが、なんとか頑張った。このソフトボール大会は、昨年新營JCに訪問した時に楊会長がリクエストした行事だ。流石にリクエストしただけあって、ユニフォームもばっちり揃っていた。相当強いのだろうと思ったのだが・・・
準備運動に現れた、シェルレンジャー????


大会はなんと福田先輩の大活躍もあり、佐賀JCシニアクラブの皆さまが何故か優勝してしまった・・・新營JCにはなんとか、私達現役チームに勝っていただいた。まあしかし、古賀シニア会長をはじめとする、シニアクラブの皆さまが、多数参加していただけたことは大変感謝するところだ。



ソフトボール大会を終えて、海苔のお土産を買いたいというオーダーに応えて、佐賀空港の川原先輩の所へお邪魔した。佐賀のお土産では、海苔がうけるらしい、新營JCとの交流事業ではこんな突然のオーダーにも応えなければならない、私は国際担当を、しかも受け入れの時ばかり
、過去何度か経験しているが突然の予定変更は毎回あるものである。
昼食会は千代田館で開催され、国際交流委員会の日本式の料理を振舞いたいという思いがこもった昼食会であった。

もともと二時間かけてゆっくりと行うはずの昼食会であったが、突然、楊会長が唐津城と呼子に行きたいといいだされ、急遽一時間に短縮し、急いで唐津へ向かった。もちろん夜の歓迎会に間に合わせるには呼子は無理であるので我慢してもらった。

唐津へ向かうバスの車中に、唐津JCの森先輩に電話をかけ、お出迎えをお願いした。西島理事長をはじめ、唐津JCの皆さま、突然の呼び出しに応えていただいてありがとうございました。このご恩は、全城で返します、流石唐津JC!のりが良い。こののりの良さが大好きだ。




そして、福岡一泊佐賀二泊の交流事業を締めくくる、歓迎懇親会がホテルニューオータニで開催された。
連日記憶を亡くすほど飲み明かし、頭もくらくらで、胃の調子も悪いのだが、今夜が最後かと思うと寂しく感じた。最後の公式の理事長挨拶ということで、少し真面目に今回の交流で思った事をお話させていただいた。この交流が24年間も続いてきたことは、両青年会議所の先輩の方々の努力の積み重ねであることは間違いない。それともう一つ大事な事は、互いの国が平和であるという事であると思う。青年会議所の究極の目的は世界平和です。私達のこの交流事業が今後50年、100年と続いていくということは、即ち両国が平和であり続けるということであると思った。お互い国の平和と両国間の平和と、世界平和を意識しながら青年会議諸活動を続けていかなければならない。
楊会長も最後の夜を名残惜しそうに感謝の言葉を述べられた。こちらこそありがとう楊会長。新營JCのみなさんが佐賀に来てくれたおかげで、私もメンバーも新しい発見をたくさんさせてもらいました。
乾杯の前に、先日例会にお越しいただいた、金美齢さんの歓迎のメッセージビデオが流された。台湾の政局について、また両国の青年会議所活動についての応援メッセージであった。
乾杯の御発声を先輩で歴代理事長の江里口小城市長にしていただきました。


最後の夜なのでお互いの話の内容も感傷的であった。2008年度理事長同士という絆は永遠に続くものであり、永遠の友情と来年の新營での再会を誓い合った。




スクリーンでは先日のSTSのニュース映像が流しだされ、ソフトボール大会のスライドショーも流された。本当に広報委員会の手際の良さには驚かされる。


そしてソフトボール大会の表彰式という段取りだ。
優勝は前述の通り、佐賀JCシニアクラブの皆さま!!KYぶりを見事に発揮し、大人なのに大人気なく優勝されてしまいました。しかしシニアクラブの皆さまには今回の交流事業を通じて多数参加をしていただき、感謝をいたします。古賀会長ありがとうございま
した。そしてMVPは見習い会員の陳君、彼は唯一新營JCの中でファインプレーをした。しかも私がたまたま打った、ヒット性の当たりをだ。商品は、キャッチしたグラブを高々と掲げる写真とグローブであった。彼は受賞のスピーチで、今回の訪問がとても楽しかったという事、受賞の喜び、そして来年は新營で佐賀のみんなを待っていると宣言した。見習い会員の彼からこの言葉を引き出せた事は、大変嬉しく涙が出そうになった。出そうになったとたった今まで思っていたが、写真を見ると、この後の目が真っ赤で、もしかしたら泣いたのかもしれない。




ハッスル賞が各チームから一名づつ選出され、ショートで孤軍奮闘していた楊会長、台湾の方と見間違われる日本人離れの着こなしでソフトボール大会にも参加した森直前、またハッスルという言葉も似合ってしまう。そして本当に活躍してしまった福田先輩であった。
もうこのあたりから記憶が断片的である。









次年度新營JCの王会長が、来年新營JCの創立30周年にたくさんのメンバーで来て欲しいと挨拶された。設立記念日は3月29日で、日本では年度末ではあるが、一人でも多くのメンバーと訪問したいと思う。
閉会の辞、古賀副理事長は、来年必ずたくさんのメンバーで、新營に訪問すると約束していた。んん??
この後は、場所を移動して懇親会の延長戦、私は寝坊してはいけないので、オータニに宿泊していたのだが、ベットに寝たのは3時間くらいであった。この日もホテルへ帰ったのは朝5時半であった。出発は9時半である。








ブログを書く為に写真を見ながら記憶をたどるとなんとなく思い出してきた。このブログ、脳の為には良いかもしれない、しかしまたせっかく活性化した脳細胞は、お酒の飲みすぎで、破壊されるのだろう。しかし何軒どれだけいったのだろう。
おお~~っこのツーショット、そして固い握手は??
次の店では可愛い??マスコットがお出迎えしてくれてみたいだ、私のカメラは江口常務が持っていたので私は気づかなかった。




そしてホテルへ5時半に帰り着くわけであるが、楊会長はまだまだ一緒にいたい様子であった。私もそうだが、この日は酔い潰れなくてよかった。
翌日は、大変名残の惜しいお見送り会であった。本当に例年になく、たくさんのメンバーがかけつけてくれていたのだが、そういうことだったのか、どういうことだかは、広報委員会のブログを見ていただきたい。私はデジカメのバッテリーを充電する暇がなく、見送りの写真を撮影できなかった。しかし広報委員会がそれを察してか察してないかはわからないが、偶然にも見送りシーンをブログにUPしていた。どこまでもかゆいところに手が届く広報委員会である。
http://naoya.sagafan.jp/e22311.html
さようなら、そしてありがとう楊会長、新營JCの皆さま
お疲れ様でした、国際交流委員会、相原委員長!!
ソフトボール大会を終えて、海苔のお土産を買いたいというオーダーに応えて、佐賀空港の川原先輩の所へお邪魔した。佐賀のお土産では、海苔がうけるらしい、新營JCとの交流事業ではこんな突然のオーダーにも応えなければならない、私は国際担当を、しかも受け入れの時ばかり

昼食会は千代田館で開催され、国際交流委員会の日本式の料理を振舞いたいという思いがこもった昼食会であった。
もともと二時間かけてゆっくりと行うはずの昼食会であったが、突然、楊会長が唐津城と呼子に行きたいといいだされ、急遽一時間に短縮し、急いで唐津へ向かった。もちろん夜の歓迎会に間に合わせるには呼子は無理であるので我慢してもらった。
唐津へ向かうバスの車中に、唐津JCの森先輩に電話をかけ、お出迎えをお願いした。西島理事長をはじめ、唐津JCの皆さま、突然の呼び出しに応えていただいてありがとうございました。このご恩は、全城で返します、流石唐津JC!のりが良い。こののりの良さが大好きだ。
そして、福岡一泊佐賀二泊の交流事業を締めくくる、歓迎懇親会がホテルニューオータニで開催された。
乾杯の前に、先日例会にお越しいただいた、金美齢さんの歓迎のメッセージビデオが流された。台湾の政局について、また両国の青年会議所活動についての応援メッセージであった。
スクリーンでは先日のSTSのニュース映像が流しだされ、ソフトボール大会のスライドショーも流された。本当に広報委員会の手際の良さには驚かされる。
そしてソフトボール大会の表彰式という段取りだ。
ハッスル賞が各チームから一名づつ選出され、ショートで孤軍奮闘していた楊会長、台湾の方と見間違われる日本人離れの着こなしでソフトボール大会にも参加した森直前、またハッスルという言葉も似合ってしまう。そして本当に活躍してしまった福田先輩であった。
もうこのあたりから記憶が断片的である。
この後は、場所を移動して懇親会の延長戦、私は寝坊してはいけないので、オータニに宿泊していたのだが、ベットに寝たのは3時間くらいであった。この日もホテルへ帰ったのは朝5時半であった。出発は9時半である。
そしてホテルへ5時半に帰り着くわけであるが、楊会長はまだまだ一緒にいたい様子であった。私もそうだが、この日は酔い潰れなくてよかった。
翌日は、大変名残の惜しいお見送り会であった。本当に例年になく、たくさんのメンバーがかけつけてくれていたのだが、そういうことだったのか、どういうことだかは、広報委員会のブログを見ていただきたい。私はデジカメのバッテリーを充電する暇がなく、見送りの写真を撮影できなかった。しかし広報委員会がそれを察してか察してないかはわからないが、偶然にも見送りシーンをブログにUPしていた。どこまでもかゆいところに手が届く広報委員会である。
http://naoya.sagafan.jp/e22311.html
さようなら、そしてありがとう楊会長、新營JCの皆さま
お疲れ様でした、国際交流委員会、相原委員長!!
新營JCin佐賀初日
2008年04月20日
新營JCのみんながとうとう佐賀にやってきた。福岡から三瀬峠を越え、道中蕎麦打ち体験をしてもらい、古湯で温泉に入り、JC会館で会務交流会議を行った。夜はマリトピアでウェルカムパーティー、長い楽しい一日であった。特に蕎麦打ち体験はSTSと佐賀新聞から取材に来ていただき、夕方のニュースで放映された。佐賀新聞の記事も、記者の方に入念に取材いただき、どんな記事になるか楽しみである。

























この蕎麦打ち体験は日本人の私でも初めての経験であり、新營JCのみんなも良い経験になったと思う。蕎麦を伸ばし、切るまでの工程を体験してもらったのだが、蕎麦の太さがまちまちで、茹で上がった蕎麦は、太いのから細いのまで見た目には美しくなかったが、大変おいしかった。夕方のSTSのニュースでは、楊会長を大きく取り上げていただき、会長も大変喜んでおられた。
しかし蕎麦を食べるシーンでは、台湾の人と間違えられた森直前が大映しになり、みんなの笑いを誘い、蕎麦も笑いもおいしいところを持っていかれた。
この後、古湯温泉に立ち寄り、新營JCのみなさんと露天風呂を楽しんだ。
それからホテルニューオータニへチェックインし、会務交流会議に臨んだ。











会務交流会議には、過去何度か出席しているが、両青年会議所を繋ぐ、中央の席に座るのは初めてであった。まさに両青年会議所を繋ぐパイプのようで、今回の私の責務をあらためて自覚させられた。会議はお互いの事業紹介と意見交換会、議題は互いの会員拡大の取り組み方であった。内容は大変参考になった。新營JCでは、会員募集の看板をメンバーの事業所の空きスペースに多数建て、また広報誌、募集チラシを市役所や、人目につくところに配置しているという。私は今年度、メンバー全員の名刺に会員拡大担当の文字を記載し、全員で会員拡大に取り込むことを促しているが、新營JCの取り組みはそれを上回っていると思った。また新入会員研修においても、私達は、新入会員研修を、入会前提で行っているのに対し、新營JCは見習い期間を設け、各事業にメンバーと一緒に参加してもらい、活動の中身を自分で知ってもらうのだという。もちろんそれで入会まで至らない見習い会員もいるらしい。今回の一行の中にも見習い会員が2名参加しており、彼らがぜひこの交流事業を通じて正会員になってもらいたいと思った。会員募集看板を設置してくれる奇特なメンバーを探さなければ、良いことはすぐにでも真似するに限る。
そして夜にはマリトピアで、ウェルカムパーティーが開催された。

今回の理事長挨拶は、毎回通訳でお世話になっている、台湾人の浦田さんの要望もあり、まだ通訳に不慣れな台湾の方を研修の為に配置していた。それで私は事前に挨拶文の提出をお願いされていたのだが、そこに悪魔の影が忍び寄った。
会の開始前に、開会の辞担当の城野副理事長に、挨拶文を見せてくれとせがまれたので、見せてしまったのがいけなかった。開会の辞では、私の挨拶をそのまま使われてしまった。
私が挨拶の内容を変えるのは、構わないのだが、通訳の方が、突然変わった挨拶に、動揺していた。
城野副理事長は今回の交流事業で、国際交流委員会のムードメーカーとして大活躍であったが、たまにこんないたずらというか、いけずをする、段取りをちゃんと把握していないのである。先ほどここまで書き終えて確認ボタンを押したら、いままで書いた内容が全てとんだのである。恐るべし城野副理事長、こんなところまで呪いがかかっているとは・・・写真は二日目に張り切りすぎて車椅子で運ばれている所である



大西副市長にも出席していただき、ウェルカムパーティーに花を添えていただいた。




恒例の記念品交換が行われ、いよいよウェルカムパーティーの開始である。
小原先輩に乾杯の挨拶をしていただきました。24年前に、新營JCに初めて行った時の三人のメンバーの一人であったという事であった。新營JCのみなさんも喜んでくれたであろう。
懇親会は数々のアトラクションと、再会を喜ぶ歓喜、ホッタの声があちらこちらから飛び交い盛り上がった。
























この後二次会、三次会と宴は続いたが、不覚にも私は酔いつぶれてしまった・・・
この蕎麦打ち体験は日本人の私でも初めての経験であり、新營JCのみんなも良い経験になったと思う。蕎麦を伸ばし、切るまでの工程を体験してもらったのだが、蕎麦の太さがまちまちで、茹で上がった蕎麦は、太いのから細いのまで見た目には美しくなかったが、大変おいしかった。夕方のSTSのニュースでは、楊会長を大きく取り上げていただき、会長も大変喜んでおられた。
しかし蕎麦を食べるシーンでは、台湾の人と間違えられた森直前が大映しになり、みんなの笑いを誘い、蕎麦も笑いもおいしいところを持っていかれた。

この後、古湯温泉に立ち寄り、新營JCのみなさんと露天風呂を楽しんだ。
それからホテルニューオータニへチェックインし、会務交流会議に臨んだ。
会務交流会議には、過去何度か出席しているが、両青年会議所を繋ぐ、中央の席に座るのは初めてであった。まさに両青年会議所を繋ぐパイプのようで、今回の私の責務をあらためて自覚させられた。会議はお互いの事業紹介と意見交換会、議題は互いの会員拡大の取り組み方であった。内容は大変参考になった。新營JCでは、会員募集の看板をメンバーの事業所の空きスペースに多数建て、また広報誌、募集チラシを市役所や、人目につくところに配置しているという。私は今年度、メンバー全員の名刺に会員拡大担当の文字を記載し、全員で会員拡大に取り込むことを促しているが、新營JCの取り組みはそれを上回っていると思った。また新入会員研修においても、私達は、新入会員研修を、入会前提で行っているのに対し、新營JCは見習い期間を設け、各事業にメンバーと一緒に参加してもらい、活動の中身を自分で知ってもらうのだという。もちろんそれで入会まで至らない見習い会員もいるらしい。今回の一行の中にも見習い会員が2名参加しており、彼らがぜひこの交流事業を通じて正会員になってもらいたいと思った。会員募集看板を設置してくれる奇特なメンバーを探さなければ、良いことはすぐにでも真似するに限る。
そして夜にはマリトピアで、ウェルカムパーティーが開催された。


城野副理事長は今回の交流事業で、国際交流委員会のムードメーカーとして大活躍であったが、たまにこんないたずらというか、いけずをする、段取りをちゃんと把握していないのである。先ほどここまで書き終えて確認ボタンを押したら、いままで書いた内容が全てとんだのである。恐るべし城野副理事長、こんなところまで呪いがかかっているとは・・・写真は二日目に張り切りすぎて車椅子で運ばれている所である

大西副市長にも出席していただき、ウェルカムパーティーに花を添えていただいた。
恒例の記念品交換が行われ、いよいよウェルカムパーティーの開始である。
懇親会は数々のアトラクションと、再会を喜ぶ歓喜、ホッタの声があちらこちらから飛び交い盛り上がった。

新營JC懇親会初日
2008年04月19日
昨夜は、新營JCの皆さまと楽しい夜を、ここ福岡で過ごした。今日は初日であるし、まだ先は長いのでゆっくり楽しみましょうと挨拶していたはずが・・・不覚にも、記憶がところどころ抜け落ちている
夕食会はしゃぶしゃぶ、二次会はカラオケボックスと、延々と続くホッタの掛け声!!ホッタは台湾語で乾杯である。しかし何故か私達両青年会議所の間では、一気飲みの掛け声になっている。





荒尾委員長、木下委員長、城野副理事長も、夕食会から合流!!一体何人メンバーが参加していたのだろう
恐らくみんな福岡に宿泊していると思われる、朝の集合時が楽しみだ。
荒尾委員長は「楽しいっす」と、私の顔を見るたび連発していた。
子どもが生まれたばかりのはずの木下委員長もでかいカメラを片手に大活躍!!そして城野副理事長!!・・・・ありがとう。
ようこそ日本へ、まだ初日ですので先は長いです、ゆっくり楽しみましょう
隣は通訳のリャオさん
ちゃんと伝わったかな?楊会長なんか乾杯の挨拶長いな・・・
かんぱ~いって、一気かい
ジョッキやし、初日やし、先は長いし、伝わっとらんし

もうこうなったらホッタの連鎖反応である。あちらこちらからホッタの掛け声が・・・
















このあたりまでは完全に覚えているのだが、カラオケボックス
の記憶が・・・・
なんか歌ってるし




カラオケボックスでの記憶は定かではないが、江口常務に預けていた私のカメラの映像には、二部屋に分かれたもう一つの部屋での、もの凄い光景が記録されていた・・・凄い、誰とは言わんがそこまでやるか
何故かホテルに帰ってからの記憶はばっちりである、新營JCのスー君が、私の耳元で、こっそり「ハングリー」と言った。よっしゃあどっかまた連れて行くぞ~っとしてたら、引き離された。かわいそうなスー君また今夜遊ぼうね
ここで突然、早起きは三文の徳情報!!
昨日移動中のバスにSTSから電話があり、本日の蕎麦打ち体験の取材に来るそうだ、よっぽどのニュースがない限り、夕方のニュースで放映していただけるとの事!!これをみたメンバーは蕎麦打ちに集合~!!
今日も長い一日になりそうだ。

荒尾委員長、木下委員長、城野副理事長も、夕食会から合流!!一体何人メンバーが参加していたのだろう


荒尾委員長は「楽しいっす」と、私の顔を見るたび連発していた。
子どもが生まれたばかりのはずの木下委員長もでかいカメラを片手に大活躍!!そして城野副理事長!!・・・・ありがとう。




もうこうなったらホッタの連鎖反応である。あちらこちらからホッタの掛け声が・・・
このあたりまでは完全に覚えているのだが、カラオケボックス

なんか歌ってるし

カラオケボックスでの記憶は定かではないが、江口常務に預けていた私のカメラの映像には、二部屋に分かれたもう一つの部屋での、もの凄い光景が記録されていた・・・凄い、誰とは言わんがそこまでやるか

何故かホテルに帰ってからの記憶はばっちりである、新營JCのスー君が、私の耳元で、こっそり「ハングリー」と言った。よっしゃあどっかまた連れて行くぞ~っとしてたら、引き離された。かわいそうなスー君また今夜遊ぼうね

ここで突然、早起きは三文の徳情報!!
昨日移動中のバスにSTSから電話があり、本日の蕎麦打ち体験の取材に来るそうだ、よっぽどのニュースがない限り、夕方のニュースで放映していただけるとの事!!これをみたメンバーは蕎麦打ちに集合~!!
今日も長い一日になりそうだ。

新營JC到着
2008年04月18日
待ちに待った新營JCの皆さまが、ついに福岡空港に到着されました。

今朝は会館に9時に集合、古賀副理事長と吉野室長が見送りに来てくれました。

福岡空港に到着すると、国際交流委員会のみんなは何やらごそごそと着だしました。カッコいいぞ、国際交流委員会のみんな。私も江口常務も村塚室長に勧められましたが、国際室の皆さんでどうぞと、涙を飲んでご遠慮させていただきました。


出発の際、私は国際交流委員会の皆さまに、自分達も楽しんでやらなければ相手も楽しくならないので、ぜひ楽しんでくださいと挨拶させてもらったが、そんな心配もなく、かなり楽しんでいる様子である、行きのバスでは、すでにみんな頬が赤くなっていた。
しかしながら現場でのミーティングにも真剣で、オンオフの切り替えが凄い委員会である。
はい並んで並んで~
「すいません、ここ通行の邪魔になるんですけど」
「お出迎えをしたいんですけど、ここまでで並んでいいですか」
準備万端!!
まだかなまだかな~
キタ━(゚∀゚)━!!
村塚室長、もう来てるよ、会長来てるよ~
バ~ン
新營JCの皆さま続々とご到着!!
飛行機お疲れ様でした
そしてミンディーとツーショット

そして楊会長夫妻と記念写真
そして村塚室長!横切らないでっ
まあ何はともわれ、いよいよ新營JC受け入れ事業が始まったのである、私は今、新營JCの皆さんが、宿泊しているホテルのちょうど道を挟んだホテルの一室でこのブログを書いている、国際交流委員会のみんなもここに泊まっている。次は5時半にロビー集合で、夕食会である。今日は福岡に宿泊し、明日佐賀に入る予定なのだが、各行事に参加するみんなは、ぜひ自分達も楽しんでもらいたい。
そういえば、空港からホテルへ向かうバスの中で、陳委員長が、夕べは胃が痛くて眠れなかったという挨拶をしたが、通訳さんの翻訳ミスかな???私などは遠足の前の日の子どものような心境で、夕べは寝れませんでした。ここのところ二日にいっぺんしか寝てないな~
今朝は会館に9時に集合、古賀副理事長と吉野室長が見送りに来てくれました。




「お出迎えをしたいんですけど、ここまでで並んでいいですか」

まだかなまだかな~


村塚室長、もう来てるよ、会長来てるよ~


新營JCの皆さま続々とご到着!!



そして楊会長夫妻と記念写真


まあ何はともわれ、いよいよ新營JC受け入れ事業が始まったのである、私は今、新營JCの皆さんが、宿泊しているホテルのちょうど道を挟んだホテルの一室でこのブログを書いている、国際交流委員会のみんなもここに泊まっている。次は5時半にロビー集合で、夕食会である。今日は福岡に宿泊し、明日佐賀に入る予定なのだが、各行事に参加するみんなは、ぜひ自分達も楽しんでもらいたい。
そういえば、空港からホテルへ向かうバスの中で、陳委員長が、夕べは胃が痛くて眠れなかったという挨拶をしたが、通訳さんの翻訳ミスかな???私などは遠足の前の日の子どものような心境で、夕べは寝れませんでした。ここのところ二日にいっぺんしか寝てないな~

明日は新營JC受け入れ
2008年04月17日
いよいよ明日から新營JCの受け入れ事業が始まります、今会館では相原委員長率いる国際交流委員会が準備の最終段階を急ピッチで進めているところであろうが、私もブログを書いたりお土産を包んだり名刺張ったり大忙しである。
写真は新營JCの楊政達理事長。昨年お邪魔したときに、今まであまり顔を見たことがなかったが、私の周りによくいるなと思ったら、そういう事でした。楊さんよろしくお願いします。
国際委員長の陳楽親さん。彼女は少しの日本語なら話をする事ができます。
しかし昨年、新營JCにお邪魔したときは、骨折してしまい、彼らには大変なご迷惑をおかけしたと思う。今回また左手に包帯をしているのだが、よく怪我をする人だなと思われるに違いない。
そろそろ私も会館へ行かなくては・・・・それではメンバーの皆さま明日からよろしくお願いします。
4月例会~金美齢氏講師例会~
2008年04月16日
昨日は4月例会が開催された。今月の例会は金美齢氏をお呼びしての公開例会であった。

大変貴重なお話を、佐賀青年会議所メンバーや、ブロックの仲間に聞いてもらう機会を作れたことは大変満足であった。
今年は例会委員会を中心として、会員に喜んでもらえ、また自身の人生、仕事、JC活動の為になる例会を企画している。その中で2,3,4,5,6,9月と講師例会を企画している。
例会というものは、本来会員であれば、出席するのは当たりまえなのではあるが、何も手を打たず、ただ来るのが当たり前だから来なさいと言うばかりでは芸がないというか、企画側にもそれなりの来てもらう企画なり、準備なりをお願いしたいという思いからだ。メンバーにこの思いが伝わっているかは解らないが、私自身今年の例会には、わくわくしながら臨んでいる。昨年の9月例会で、開始時39名という例会に愕然としたが、徐々に例会に出席する意義が、メンバーに伝わっているのかと思う。出席者数は96名出席率は70%あまり、なんとか来月は100名を超えてもらいたい。

私が金美齢さんに初めてお会いしたのは、おととしのASPAC高松大会の時であった。その時は、私は(社)日本青年会議所の近現代史検証委員会に出向しており、その委員会の阿部副委員長が日韓平和推進会議に委員として出向しており、そのかばん持ちとしてお供させていただいたときである。それ以来、JCの事業としては、昨年のサマコン、そして九州地区大会メインフォーラムの講師としてお迎えしたときと今回で4回もお世話になっている。
昨年の九州地区の協働運動7ブロック連絡会議は私の4回の九州地区出向の中で1番楽しく、充実した委員会であった。写真は地区大会の前日に当委員会と、金美齢氏を囲んでの懇親会でのものだ。
その時のメインフォーラムは大変すばらしい講演で、私と共に出向していた相原委員長、今泉委員長、野中委員長にとっても達成感があった。しかし残念だったのが当日佐賀JCのメンバーを乗せたバスが、メインフォーラムに間に合わず、その講演を聴けなかった事だった。なんとかしてメンバーにこの話を伝えたかったという思いが私の中にあったのだが、今回18日から台湾の新營JCの受け入れ事業を行う相原委員長も、なんとかしてメンバーに台湾の事を学んで欲しいという思いがあった。それらがうまくかみ合い今回の金美齢氏をお呼びしての例会に繋がったのである。

昨年私達が新營JCにお邪魔したときは、日月潭に連れて行ってもらい、そして台南にある、米の品評会で優勝した農家に連れて行ってもらい、そこのおじいさんが、大変流暢な日本語で私達を歓迎してくれた。日本は日清戦争に勝利したのち、50年間台湾を統治していたのだが、その時日本は台湾を国内と同様に近代化しようと努力した、日月潭は明石元次郎が建設を指示し、台湾で作られる蓬莱米は末永仁が10年の研究の後、台湾の風土気候に合う米を開発した、またその米を作るために必要な水路、有名な嘉南大洲は八田興一が設計した。その他多くの日本人が台湾の近代化に尽力したのだ。それらは自国の為であったかもしれないが、台湾の人々はその事を大変感謝しているのである。今書いた人々の名前、エピソードは全て、その農家のおじいさんの口から出た言葉である。おじいさんは、ただひたすら私達に感謝の言葉を述べた、今回米作りで金賞をもらったが、私は日本語の一等賞の方がよかった。中国人が入ってきて、日本語を禁止され、金賞になってしまった。私は15歳まで日本人だったと胸を張って言われた。また最後にこの村に日本人が来るのが50年ぶりで、大変嬉しいし、自分の日本語が下手になってみんなにうまく伝わらないのではなかったかと謝られた。私は涙が止まらなかった。
理事長挨拶ではそんなエピソードをお話させていただいたが、今一度みなさんに言いたいのは、新營JCのみんなは姉妹JCを結んでいる私達の事を勉強しているということです。日本の歴史全体を学んでるかどうかは解りませんが、少なくとも日本と台湾が深く結び合っていた時の歴史は学んでいます。だからそのような場所に私達を連れて行ってくれたのです。我々も最低限それらの歴史を学ぶ必要があるのではないでしょうか。
直前理事長は先日の川掃除を例にとられ、今までの事業の歴史を学ぶ必要性と各事業の意義を考えて各事業に臨んで欲しいとお話された。まさにその通りである。ただ参加するだけなら、本当に青年会議所活動など、ただの下請け作業でしかないのである。各事業の意義は、みんなで見つけ出し、作り出すものであると思う。

例会終了後、金美齢さんはいつものように、私達青年会議所メンバーと遅い夕食をとっていただいた。金氏は、大変青年会議所活動に理解をしめされており、サービス精神旺盛である。あまりみんなでよってたかっては、お食事をとられる暇もないのではと思ったが、気前よくメンバーとのツーショット写真の要望にも応えていただいた。

会が始まる前には、新營JCへの歓迎メッセージの撮影もしていただいた。金氏は陳水扁前総統の国策顧問を担当されていたこともあり、台湾のジャンヌダルクとして、台湾でも大変有名である。きっと新營JCのみんなも喜んでくれるであろう。
さて、読み返してみると肝心の講演の内容を記述していないことに気づいたが、それは参加した人の特権でしょう!!!
あ~楽しかった
大変貴重なお話を、佐賀青年会議所メンバーや、ブロックの仲間に聞いてもらう機会を作れたことは大変満足であった。
今年は例会委員会を中心として、会員に喜んでもらえ、また自身の人生、仕事、JC活動の為になる例会を企画している。その中で2,3,4,5,6,9月と講師例会を企画している。
例会というものは、本来会員であれば、出席するのは当たりまえなのではあるが、何も手を打たず、ただ来るのが当たり前だから来なさいと言うばかりでは芸がないというか、企画側にもそれなりの来てもらう企画なり、準備なりをお願いしたいという思いからだ。メンバーにこの思いが伝わっているかは解らないが、私自身今年の例会には、わくわくしながら臨んでいる。昨年の9月例会で、開始時39名という例会に愕然としたが、徐々に例会に出席する意義が、メンバーに伝わっているのかと思う。出席者数は96名出席率は70%あまり、なんとか来月は100名を超えてもらいたい。
私が金美齢さんに初めてお会いしたのは、おととしのASPAC高松大会の時であった。その時は、私は(社)日本青年会議所の近現代史検証委員会に出向しており、その委員会の阿部副委員長が日韓平和推進会議に委員として出向しており、そのかばん持ちとしてお供させていただいたときである。それ以来、JCの事業としては、昨年のサマコン、そして九州地区大会メインフォーラムの講師としてお迎えしたときと今回で4回もお世話になっている。
昨年の九州地区の協働運動7ブロック連絡会議は私の4回の九州地区出向の中で1番楽しく、充実した委員会であった。写真は地区大会の前日に当委員会と、金美齢氏を囲んでの懇親会でのものだ。
その時のメインフォーラムは大変すばらしい講演で、私と共に出向していた相原委員長、今泉委員長、野中委員長にとっても達成感があった。しかし残念だったのが当日佐賀JCのメンバーを乗せたバスが、メインフォーラムに間に合わず、その講演を聴けなかった事だった。なんとかしてメンバーにこの話を伝えたかったという思いが私の中にあったのだが、今回18日から台湾の新營JCの受け入れ事業を行う相原委員長も、なんとかしてメンバーに台湾の事を学んで欲しいという思いがあった。それらがうまくかみ合い今回の金美齢氏をお呼びしての例会に繋がったのである。
昨年私達が新營JCにお邪魔したときは、日月潭に連れて行ってもらい、そして台南にある、米の品評会で優勝した農家に連れて行ってもらい、そこのおじいさんが、大変流暢な日本語で私達を歓迎してくれた。日本は日清戦争に勝利したのち、50年間台湾を統治していたのだが、その時日本は台湾を国内と同様に近代化しようと努力した、日月潭は明石元次郎が建設を指示し、台湾で作られる蓬莱米は末永仁が10年の研究の後、台湾の風土気候に合う米を開発した、またその米を作るために必要な水路、有名な嘉南大洲は八田興一が設計した。その他多くの日本人が台湾の近代化に尽力したのだ。それらは自国の為であったかもしれないが、台湾の人々はその事を大変感謝しているのである。今書いた人々の名前、エピソードは全て、その農家のおじいさんの口から出た言葉である。おじいさんは、ただひたすら私達に感謝の言葉を述べた、今回米作りで金賞をもらったが、私は日本語の一等賞の方がよかった。中国人が入ってきて、日本語を禁止され、金賞になってしまった。私は15歳まで日本人だったと胸を張って言われた。また最後にこの村に日本人が来るのが50年ぶりで、大変嬉しいし、自分の日本語が下手になってみんなにうまく伝わらないのではなかったかと謝られた。私は涙が止まらなかった。
例会終了後、金美齢さんはいつものように、私達青年会議所メンバーと遅い夕食をとっていただいた。金氏は、大変青年会議所活動に理解をしめされており、サービス精神旺盛である。あまりみんなでよってたかっては、お食事をとられる暇もないのではと思ったが、気前よくメンバーとのツーショット写真の要望にも応えていただいた。
会が始まる前には、新營JCへの歓迎メッセージの撮影もしていただいた。金氏は陳水扁前総統の国策顧問を担当されていたこともあり、台湾のジャンヌダルクとして、台湾でも大変有名である。きっと新營JCのみんなも喜んでくれるであろう。
さて、読み返してみると肝心の講演の内容を記述していないことに気づいたが、それは参加した人の特権でしょう!!!

あ~楽しかった

潜入広報委員会
2008年04月14日
今日は明日の金美齢氏をお呼びしての講師例会の資料を取りに会館に来たのだが、丁度総務委員会と広報委員会が開催されていたので、委員会協議も覗かせてもらった。
某先輩に、これはプロの仕事だと言わしめた、広報誌とHP改定のラフがあったので隠し撮りした。
4月対内広報誌の下書き↓
こうやって毎月発行される広報誌であるが、広報委員会メンバーの汗と努力の結晶であるので、ぜひ一生懸命読んでください。
ちなみに広報誌は例会時に配られるのと、定時発送に同封されています。
加藤委員長にも遭遇し、例えるなら温泉に浸かった時に、毛細血管まで血がめぐっているなと感じる時のような感覚になりました。本当にお疲れ様です。
明日は例会です。一人でも多くのメンバーの顔が見れたらもっと幸せです。