YOSAKOI会議2
2008年03月03日
今まで昨日行われた事を日付が変わってから投稿していたので、このままいくと、本日付の記事がないことに気づいた。
土曜日に行われたYOSAKOI会議とYOSAKOIについて報告しよう。
佐賀のよさこいは2002年佐賀青年会議所、事業創造委員会を中心に企画運営されたのが始まりだ。委員長は私であった。事業創造という委員会名からわかるように、何か新しい継続事業をしてくださいというのが、理事長からいただいたミッションだった。同時に栄の国まつりの運営も担当していたので、今思えば相当な負担ではあったが、当時はそう感じなかった。50周年記念誌に当時の坂口理事長も投稿されているが、委員会からよさこいを佐賀でやると理事会にあげたのは、栄の国まつりの3ヶ月前であった。スタッフ会議を重ね、委員会でも協議を重ねたが、どのアイデアもパッとせず、新事業を秋に立ち上げるか栄の国祭りに同時開催出来る物にするか選択を迫られた。
その当時、毎年佐賀青年会議所は栄の国まつりのすべてのイベントの運営を担当しており今YOSAKOIさがが、開催されている時間帯は、毎年のまつり系の委員長のカラーで単発のイベントを開催していたので、そこのイベントも考えなければいけなかった。その関係もあって、九州のよさこいの先駆者である佐世保に、あるチームの練習を見学に行った。
その時の私の衝撃は言葉で言い表しがたい。練習には子どもから年配の方まで多数参加されており、その世代を超えた一体感と楽しさが十分伝わり、練習を一緒に見に行ったメンバーを説得する必要もないくらいであった。
また、新事業とまつりのイベントを考えなければいけないという問題も同時に解消でき、青少年育成、まちづくりと、青年会議所が掲げている二本柱の事業を同時に遂行出来る物と確信した。
とにかく時間がなかったので、私はよさこいに集中することになり、踊りを覚え、第一回YOSAKOIさがを成功させるべく、日々の生活がよさこいづけになった。栄の国祭りの運営、特に花火などは、当時の副理事長、室長に大半をおまかせし、多大なご苦労と支援をいただいた。
よさこいをするにもチームがないのだから、まずは自分達が踊らなければならなかった、委員会のほとんどのメンバー、また理事長も踊った。理事長も踊ったというと、私を見れば、違和感はないかもしれないが、50周年記念誌をまた見てほしいが、坂口理事長が踊るのはものすごく違和感があったが、それだけ青年会議所としての一体感があり、今日まで続くイベントへと成長したものと思う。
よさこいに関しては私も創めた人として思い入れがあり、書きたいことが多々あるが、このあたりで切り上げて、また栄の国祭りが近づいてくるつど書いていこうと思う。
っで、肝心の北九州で行われた会議であるが、九州のよさこいはご恩と奉公のシステムが当時から暗黙の了解として存在している、それは各地のまつりに参加するから自分達の祭りにも参加してくださいといったものだ。だから会議と言うよりは各地まつりのPRがほとんどの目的となっている。会議には私自身2年ぶりに参加していた。YOSAKOIさが自体はずっと実行委員長として運営をしているが、2年前から踊ってないからだ、来てくださいと行っても自分が踊ってないので、前述のシステムに私がそぐわないからだ。また、他のJCの事業にも興味を持ち、予定がことごとくかぶったという事も理由の一つだ。
会議には当時の副理事長、A先輩も出席されていた、現場でたまたまあったのだが、先輩は4年ぶりの参加だそうだ、JCで言えば二人ともスリーピングから目覚めたみたいで面白かった。また、同じ事でやる気になる周期もかぶっており、つくづくこの方とは縁があると考えると、可笑しくなった。写真はA先輩の後姿である。
本日は常任理事会が開催されます。
土曜日に行われたYOSAKOI会議とYOSAKOIについて報告しよう。
佐賀のよさこいは2002年佐賀青年会議所、事業創造委員会を中心に企画運営されたのが始まりだ。委員長は私であった。事業創造という委員会名からわかるように、何か新しい継続事業をしてくださいというのが、理事長からいただいたミッションだった。同時に栄の国まつりの運営も担当していたので、今思えば相当な負担ではあったが、当時はそう感じなかった。50周年記念誌に当時の坂口理事長も投稿されているが、委員会からよさこいを佐賀でやると理事会にあげたのは、栄の国まつりの3ヶ月前であった。スタッフ会議を重ね、委員会でも協議を重ねたが、どのアイデアもパッとせず、新事業を秋に立ち上げるか栄の国祭りに同時開催出来る物にするか選択を迫られた。
その当時、毎年佐賀青年会議所は栄の国まつりのすべてのイベントの運営を担当しており今YOSAKOIさがが、開催されている時間帯は、毎年のまつり系の委員長のカラーで単発のイベントを開催していたので、そこのイベントも考えなければいけなかった。その関係もあって、九州のよさこいの先駆者である佐世保に、あるチームの練習を見学に行った。
その時の私の衝撃は言葉で言い表しがたい。練習には子どもから年配の方まで多数参加されており、その世代を超えた一体感と楽しさが十分伝わり、練習を一緒に見に行ったメンバーを説得する必要もないくらいであった。
また、新事業とまつりのイベントを考えなければいけないという問題も同時に解消でき、青少年育成、まちづくりと、青年会議所が掲げている二本柱の事業を同時に遂行出来る物と確信した。
とにかく時間がなかったので、私はよさこいに集中することになり、踊りを覚え、第一回YOSAKOIさがを成功させるべく、日々の生活がよさこいづけになった。栄の国祭りの運営、特に花火などは、当時の副理事長、室長に大半をおまかせし、多大なご苦労と支援をいただいた。
よさこいをするにもチームがないのだから、まずは自分達が踊らなければならなかった、委員会のほとんどのメンバー、また理事長も踊った。理事長も踊ったというと、私を見れば、違和感はないかもしれないが、50周年記念誌をまた見てほしいが、坂口理事長が踊るのはものすごく違和感があったが、それだけ青年会議所としての一体感があり、今日まで続くイベントへと成長したものと思う。
よさこいに関しては私も創めた人として思い入れがあり、書きたいことが多々あるが、このあたりで切り上げて、また栄の国祭りが近づいてくるつど書いていこうと思う。
っで、肝心の北九州で行われた会議であるが、九州のよさこいはご恩と奉公のシステムが当時から暗黙の了解として存在している、それは各地のまつりに参加するから自分達の祭りにも参加してくださいといったものだ。だから会議と言うよりは各地まつりのPRがほとんどの目的となっている。会議には私自身2年ぶりに参加していた。YOSAKOIさが自体はずっと実行委員長として運営をしているが、2年前から踊ってないからだ、来てくださいと行っても自分が踊ってないので、前述のシステムに私がそぐわないからだ。また、他のJCの事業にも興味を持ち、予定がことごとくかぶったという事も理由の一つだ。
会議には当時の副理事長、A先輩も出席されていた、現場でたまたまあったのだが、先輩は4年ぶりの参加だそうだ、JCで言えば二人ともスリーピングから目覚めたみたいで面白かった。また、同じ事でやる気になる周期もかぶっており、つくづくこの方とは縁があると考えると、可笑しくなった。写真はA先輩の後姿である。
本日は常任理事会が開催されます。
Posted by くうちゃん at 13:26│Comments(0)
│佐賀青年会議所